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13.きもののTPOついて
 きものの雑誌に「きもののTPO云々」の記事や特集が良く載る。
 TPOというのは、とき(time)、ところ(place)、目的(occasion)の頭文字を取った和製英語らしい。「いつ、どこで、何を着るか」というのがTPOの意味らしいが、我が国のきもの事情に言及するのに何故欧米でも使わない和製英語を使わなくてはならないのかという疑問も残るけれども、TPOというのはその言葉の簡潔さがうけてか日本語に溶け込んでしまったらしい。
 もともとTPOと言うのはファッション業界のマーケット細分化戦略の為に1960年代に生み出された言葉で、そこには欧米流の地政学的戦略、すなわち人為的に需要を細分化させることによって更なる需要と消費を喚起しようとする意図が見え隠れして、情緒的な和の感覚とは相容れないものが有るように思えるのだけれども、その事情を踏まえた上で言葉の簡潔さ故に私もTPOと称したいと思う。
 社会の発達とともに「とき」「ところ」「目的」に合わせて衣装を替えるということは世界中どこでも見られる事で、その是非については論を待たないと思う。
 誰しも「とき」や「ところ」によって着物を替えなければならないことは分かっている、しかし、ではどの着物を着たらよいかと言って迷ってしまうのである。
 きものの専門書にも具体的なTPOについては載っているし、私も良く相談される。お客様の質問には一問一答、自分の分かる範囲でお答えしているが、指南書の内容も含めて「これで良いのか」という思いが拭い去れないでいる。
 今回はきもののTPOそのものについて考えてみたい。
 もともと和服にはTPOなる言葉もなかったし、指南書もなかった。和服が普段に着られていた時代には、むしろ洋服のTPOの指南書がもてはやされたかも知れない。見たことも無い西洋の衣服が入ってきた当時はさぞ驚きの目で洋服を見ただろうし、着方、TPOに関してはいちいち教わっていただろう。和服は皆が着ているし指南書などなくても自然にTPOは身に付いて行っただろうから現在では洋服と立場が逆転してしまったといえる。その原因は言うまでも無く和服が縁遠くなったからである。全くきものを着たことの無い人にとっては留袖も訪問着もないし、紬も縮緬もない。どのきものを何時着るべきかについては全く分からないと言った方が良い。人間誰しも生まれながらにしてしきたりを知っているわけではない。成長する間に周囲の人達が直接に間接的に教えてくれるものである。しかし、着物に関してはもはやその環境にはないと言える。すでに自ら積極的に学ばなければ、きもののTPOは身に付かないところまで来ている。
 今着物を着たいと思っている多くの人が着物のTPOを学ぼうとしているのは良い事だけれども、問題はここから先で、話がややこしくなってくる。  次のようなお客様との会話がよくある。
「もっときものを御召になってください。」
「いや、着る機会がなくて。」
「いいえ、着る機会はたくさんありますよ。今日もきものでお出でになったらよろしかったでしょう。晴着でしたら結婚式でも何でも機会はたくさんあるでしょう。」
「ええ、それはそうなんですが、やっぱり・・・。」
 結婚式にきものを着て行く人はどの位いるだろうか。全く着物を着ない人は除いて、立派な晴着を持っている人でも積極的に着物を着て行く人は一割にも満たないのではないだろうか。その理由を問えば、
「一人では着れない。」
「自分だけ着るのは恥ずかしい。」
「髪を結い直さなければならない。」
という応えが返ってくる。しかし、余り口に出しては言わないが、次のような理由があるらしい。
「本当に自分が持っている着物を着て行ってよいものか。誰かに場違いだと非難されはしないだろうか。」
 着物を着たいと思っている人ならば一通りTPOを知っているはずである。しかし、実際に着物を着る段になると、そう言った難問が頭をもたげてくるのである。
 着物は日本人にとって最も似合う衣装である。他のどんな晴着よりもきものは良く目立つ。それだけに着る人にとってはTPOの誤りは命取りにもなりかねないという気持があるのだろう。
 TPOについては私も良く相談される。そして、その内容は実に詳細なものである。
「訪問着を着ても良いと聞いているのですが、この程度の訪問着は良いのでしょうか。」
「伊達衿はしても良いのでしょうか。」
「○○柄は××の時には着られますか。」 等等・・・。
  微にいり細に亘ってTPOを調べ上げなければ安心してきものは着れぬという事だろうか。その結果、自分のきものが場違いではないと確認した上で、
「○○さんが良いと言ったから。」
「××の本に書いてあったから。」
という他力本願の思いで安心してきものを着るのである。
 きもののしきたりに従って着物を着るのは正しい事だけれども、どうも何かが違っているように思える。
 彼女らがTPOに従おうとするのは日本の伝統文化を考えているのではなく、周囲の目を気にしているのである。
 きものにしきたりはあるけれども、成文化された規則はない。茶道や華道のように家元もいない。聖書やコーランのような絶対的な規則が記された教典があればそれに従えば良いし、家元がいれば家元の言葉を成文化しさえすれば全ては解決する。
 しかし、逆説的だけれども、きものには絶対的な規則はないのである。きもののしきたり、規則は慣習的なものである。長い歴史が創り出した日本の文化とでもいえるものがきものの規則である。
 きものの指南書は多く出されているが、それらは慣習を成文化したものである。慣習は地域によっても差があり、時代と共に変化するものである。解釈する者の主観も加わり統一した見解には到らない。また、成文化した場合、日本語、きもの用語の曖昧さが手伝って、取り方にによっては様々に解釈される。例えば次のようである。
 私が頂戴した質問である。
「振袖には丸帯が正式と書いてあったのですが、袋帯はできないのでしょうか。」
 その人が調べた指南書には、 「振袖には丸帯が正式」 とでも書いてあったのでしょう。その言葉に頭を悩ませて左記のような質問となった次第である。
「振袖は丸帯が正式」は、間違いではない。しかし、「正式」とはどういう意味だろうか。 「丸帯以外は締めては成らない。」 とも摂れるし、 「丸帯が一番良い。」 とも摂れる。
 また、現在振袖の99パーセントが袋帯を締めている事考えれば、 「振袖には丸帯が正式」 という言葉が適切なのかどうかも疑問に思えてくる。
 これからきものの知識を得ようとする人は指南書の一文一句が聖典のように思え、自分が解釈したものが正しいと思うだろう。着付師や呉服屋の言葉を間違いない唯一の真実だと思うとき混乱が起こってくる。
 成文化された慣習を学んだ人が、それが全てだと思い込み、他人と比較しようとするときに混乱が起こる。慣習という傘の下で充分に受け入れられるはずの違いが、あたかも魔女狩りをするが如く比較の対象となってしまうのである。そして、その狭間で迷える子羊のようにびくびくする人達が出てくる。
 今では普段着になってしまった洋服を考えてみよう。洋服を着ていてTPOの間違いを指摘される事は余りないし、余程特殊な場所に行くのでなければそれ程TPOを気にしない。それが何故和服となると他人と比較してTPO云々の話が出てくるのだろう。 「その場に合ったきものを着る」のがTPO本来の意味である。「その場に合ったきもの」とは、「その場の雰囲気を盛り立てる」きものである。その絶対条件は、「その場の雰囲気を壊さないこと」「他人に不快感を与えない事」である。
 きものは着る人の心の一部を代弁し、結婚式であれば、新郎新婦を祝福する気持。葬式であれば故人に哀悼の意を示す。その気持が表れていればTPOは充分といえる。
 他人のきものを云々し「雰囲気を壊し」「他人に不快感を与えるのは」きもののTPO以前の問題である。
 きもをより良く着るにはTPOを正しく学ばねばならない。それとともにお互いに気持ちよく着れる様に心がける事。そちらの方が先に学ばねばならないと思うのだけれども・・・・。


 

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