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11. きもの原理主義

 現在、きもの業界は危機的状況にある。「業界は」という言い方をすると、あたかも(メーカーや問屋も含めて)きものを商っている人の為に危機を叫んでいると取られかねないので、言い方を換えれば「きものの文化は危機的状況にある」と言える。

 誰しも感じているように、きものを着る人が減少し、需要が減り、染屋機屋が店を閉め、伝統的な染物や織物が手に入り難くなっている。

 きものを着たこともない人、すなわち生まれてこの方ずっと洋服しか着たことのない人達の目には、きものは一部の人の道楽と映るかも知れない。しかし、業界の人も含めて、日本のきものを大切に次世代に伝えようとする人達にとってはゆゆしき問題である。

 今まで伝統的に守ってきた物が他の物にとって代わられるのはひとりきものだけではない。長く日本酒を愛飲してきた日本人の間にビールが広まり、ウイスキー、ワインが飲まれるようになり、日本酒の需要が減っていると言う。畳表屋の友人は、
「最近はマンションでも一戸建てでも日本間が少なくなって畳の需要が減っている。」
と嘆く。

 生活様式や食生活の変化で、伝統的商品の需要が減るというのは明治維新以後、西洋の文化を取り入れた結果と考えられなくもない。

 原理主義という言葉がある。言葉通りに捉えれば、根本原理を大切にしようという考え方である。具体的には1979年、イランのイスラム原理主義者達がイスラム教指導者ホメイニ師を立てて西洋化したパーレビー朝を倒したイラン革命が思い出される。イスラム原理主義者達はイランに深く入り込んだ西欧文化を排除して昔のイスラムの世に戻そうとした。また、イスラエルではユダヤ原理主義者がユダヤ教の厳しい戒律を頑なに守ろうとしている。

 しかし、東西の文化が入り乱れ、産業の発達著しい今日、原理主義という言葉は復古主義的、それも極端で過激な、という響きも感じられる。

 業界の心有る者は、もっと日本人がきものを着るように、きものの需要を増やすようにと叫んでいる。私もその一人だし、きものの商いを生業とする者にとっては当然の事と言える。日本酒の業界が、
「日本酒をもっと飲もう」
畳屋さんが、
「日本間を見直そう 」
というのも全く同じである。

 しかし、こう言った議論を進めていくとどうも腑に落ちない壁に突き当たることがある。
   ・・・・・・・
「もっときものを着よう。」
「きもの屋がきものを着ていないじゃないか。」
「いいえ、私も時にはきものを着ています。」
「そんなにきものを普及したけれゃ、時にはなどと言わずに洋服を着ないで年がら年中きものを着ていればいいだろう。」
   ・・・・・・・
「日本酒をもっと飲みましょう。」
「そう言っている造り酒屋のあんたが、『とりあえずビール』と言って乾杯の時にビールを飲んでいるだろう。本当にそう思っているのなら日本酒以外は飲まなければいい。」
   ・・・・・・・
「日本間を見直そう。」
「あなたの家にも洋間があるでしょう。」
   ・・・・・・・

 以上のような議論に陥ることがある。きもの屋がきものの普及を促すためにきものを着るのは良い事だし、きもの屋の中には実際年がら年中きもので通している方も多くいる。私の父もいつもきもの姿で通している。では、それ以外の呉服屋はきものの普及を考えていないのかと言えば、そうとばかりもいえない。

 しかし、始終きものを着ていないきもの屋が突き詰めて考えていけば前述のような議論に突き当たるのである。
「日本酒の消費量を増やそうと思うのならば、他の酒の消費量を減らし、その分日本酒を飲めば、確実に日本酒の消費量は増える。それは造り酒屋自らが身を持って率先してやるべきだろう。」

 まさに原理主義である。きもの原理主義、日本酒原理主義、畳原理主義と言えるかも知れない。そして、
「日本人は全員きものを着るべし」
「日本人は日本酒を飲むべし」
「日本の住宅から洋間を駆逐しよう」
と言い出そうものなら、もはや穏やかではない。国粋主義や過激なナショナリズムの台頭と受けとめられるかもしれない。しかし、そのような議論が通らないことは、世の中を見れば経験的にうなづける。

 実際にそのような事を言い出す人はいないと思うけれども、その産業に真面目に従事する人は、
「きもの屋はいつもきもの姿でなければ、きものを売る資格はないのか。」
「造り酒屋の主人はビールを飲んではいけないのか。」
「畳屋はベッドで寝てはいけないのか。」
と、自問自答、自己嫌悪に陥ってしまうのである。

 業界の者にとって、これから先どのような立場できものの普及を訴えていくのか。確固たる信念がなければ、「きものを着よう」の掛け声も唯の空論になってしまう。

 きものの需要の減少は、「日本文化に対する西洋文化の勝利」とか「呉服業界の人間が余りにもだらしがないから」と捉えるのは早計である。西洋文化が入ってきたが為に呉服の需要か減少したのは否めないけれども、それは西洋文化の勝利を意味しない。

  東西の文化が急速に交流している現在、文化は互いに行き来している。例を揚げれば、アメリカでは日本の寿司がブームを呼んでいる。日本人経営の高級な寿司屋かある傍ら、日本人の手を離れた下町の小さな寿司屋も見かける。アジア系の人が経営しているらしいが、それほど隅々まで日本の寿司が入り込んでいる。もしも、白人至上主義者が日本の寿司をアメリカから駆逐すると宣言したとしても、それは難しいだろう。現代は、お互いがお互いの文化を取り入れる時代なのである。

「業界がだらしないから」というのも的を得ていない。確かに業界の行き方ガ間違っていた面があったのは事実だけれども、どれ程優秀な人間が業界を動かしても呉服の需要の減少は食い止められなかっただろうと思う。

 要は現代がどのような世の中なのかを正しく認識した上で、きものの普及を計らなければならない。 

 私は自分が真に良い世の中に生まれたと思っている。世界が狭くなり、居ながらにして世界の情報、文物が手に入るのである。酒に例えれば、日本酒はもちろん、ビール、ウイスキー、ワイン、はてまた紹興酒、さらに余り聞かないような世界の酒が手に入る。日本酒も楽しめれば洋酒、その他何でも楽しむことができる。そんな世の中ならば、私が造り酒屋の主人であってもビールやワイン、紹興酒も楽しみたいと思う。

 呉服業界もこれと同じではないだろうか。呉服屋の主人だからといって始終きものを着ている必要はない。時にはスーツ姿で決めるのも良いし、Tシャツで汗を流すのも良い。原理主義に傾く必要は全くないのである。

 では、呉服業界の人間は「きものを着る」という事に対してどのように対処し模範を示せば良いのだろうか。きもの屋が、「きものを一人で着れない。」では話にならない。「きものは全く着ない。」でも話にならない。きもの屋がきものを着る時にはきちんと着なければならない。

 私は普段はスーツ姿で仕事をしている。呉服店と洋服店(ブティック)を経営しているという事情もあるけれども、車を運転して機動的に動くにはスーツの方が具合が良いのは否めない。しかし、冠婚葬祭や祝い事には必ずきものを着て行く。私は黒のスーツを持っていない。結婚式、葬式、祝賀会には必ず紋付羽織袴で出席する。夜の座敷での会合(飲み会)には紬を着て行く。夏はゆかたを着る。年がら年中きものを着てはいないけれども着るべき時にはきものを着ることにしている。

 きものを着ない人にきものの良さをアピールし、きものを着てみたいと思わせるのがきもの屋の務めである。常にきものを着ていようとも、人の目にだらしなく映ったのでは意味がないどころか逆効果である。余りにきものをアピールすれば、
「あいつはきもの屋だから」
と、別格に見られてしまい、かえってきものを敬遠されてしまうという事情もある。
「きもの屋は着るべき時にはきものをきちんと着るべし」
と思うけれども、その裏側には、
「きもの屋は洋服をきちんと着るべし」
とも思う。呉服業はファッション産業である。現代は東西の垣根を越えて文化が入り混じっている時代である。大きな目で見ればアパレル業界も呉服業界も供にファッション産業の傘の基にある。ファッション産業に携わる人間であれば、ファッションに気をつかわなければならないのは当然である。

 きものの雑誌に俳優がモデルとしてきものを着て登場することがある。男のきものの場合、あまりきものを着ない男優であってもステキにきものを着こなしている。それを見れば誰しも「自分もこんな風にきものを着てみたい」と思う。きもの姿を見たこともない俳優でもきもの姿がよく似合うのは、常に洋服もきちんと着こなしているからではないだろうか。

 男性できものを着る人は少ないが、必要な時にきもの屋は進んできものを着るべきである。まして「きもの を着ているのは変わり者」などと言う目を持たせてはならない。

 私は先日アパレルメーカーの社長の葬式の為に東京へ行った。もちろん紋付袴である。アパレル関係者が集まるだけに 、
「皆スーツなんじゃない」
と女房に言われたけれども、そんな事を臆する必要はない。大体私は黒のスーツを持っていない。山形から紋付を着て行った。実は私も内心どのような反応があるのかと期待もしていた。

 案の定、葬儀場は女性も含めてきもの姿は私一人。しかし、何事もなく(変人に見られることもなく)応対してくれた。当然と言えば当然だが、日本中どこへ行っても、紋付姿が通るのは当たり前の話である。中には自分も紋付を着てみたいと思った人もいただろうと思う。呉服屋は率先してその範を示せば、自ずからきものを着る人は増えると思えるのである。

 今後、呉服業界が、きものの需要の拡大を図ろうとするのならば、現在の状況を正確に把握しなければならない。もはや江戸時代や明治時代には戻れないのだから、どのような形できものを日本の社会に残るべきかを考えなければならない。ややもすると原理主義的な考えに陥り、現実には合わない思考に走ってしまう。呉服業界の販促活動においても、現実に即してどのような形できものを残すべきかを考慮しながら進めなければならないと思う。現実を把握した上で、業界の人間には是非次の事をやっていただきたい。  
 着るべき時(冠婚葬祭等)にはきものを着る。  
 ファッション産業の担い手としての自覚を持つ。
 呉服業界は現実に則した生き残り、需要拡大を考えなければ、と思う。

 もっとも、『きもの原理主義者』と呼ばれるような熱血漢がさしあたって業界には見当たらないのも寂しいような気もするけれども。


 

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