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5. 御召

 「御召」(おめし)と言う着物がある。着物はその名称から、それがどんな着物なのかを想像するのが難しい物が多い。「御召」もその一つである。何故その名称が付くのか、どんな着物なのか、皆目検討が付かないのである。

 私は、「御召」という言葉は小さい時から聞いて知っていた。そして、京都の呉服問屋に入り、それが頻繁に聞くようになり、営業マンとして「御召」とは何であるかを正確に知らなければならない立場になった。先輩社員に
 「御召って言うのはどんな着物なのですか。」
と聞くと、あきれたような顔で言われた。
 「なんだ、お前、御召も知らないのか。ちょっと二階に来い。」
と言って商品の積んである所に行き、
 「これが御召だ。」
と、丸巻の反物を広げながら見せてくれた。

 それは、縮緬(ちりめん)のようにサラサラせずに、かと言って紬のようにゴワゴワしない生地だった。 「これは、縮緬とはどう違うのですか。紬とはどこが違うのですか。」
と、私はその先輩社員に質問したが答えは要を得なかった。

 呉服問屋の営業マンにとっては、その生地がどんな製法で造られるのかという知識は必要ではなく、それが何という生地なのかを見分けられれば十分なのである。その先輩社員が格別無知であった訳ではないけれども「御召」とはどんな着物地なのか、どんな製法で造られるのかを正確に言える人は少ない。

 「御召」とは「御召縮緬(おめしちりめん)」の略であり、又「先染め縮緬」とも呼ばれる。

 「縮緬」というのは、生糸を数本引き揃えて束ね、強い撚をかけた糸で織った生地である。生糸にはセリシンという糊が付いていて、織ったばかりの縮緬生地はゴワゴワしている。丹後の縮緬工場で見せてもらった事があるが、サラサラした光沢のある縮緬からはとても想像できないような、まるで雑巾を糊で固めたようだった。その織られた縮緬生地は精練という工程にまわされる。ここで生糸についた糊は落とされ、撚を掛けられた糸は元に戻ろうとして縮緬特有の表面の「しぼ」ができる。こうして真っ白な宝石のような縮緬生地ができるのである。そして、その白生地に染めた着物が友禅である。

 さて、「御召」の場合、糸は縮緬と同じく束ねて撚を掛けた生糸が使われるけれども、糸の段階で精練、染色される。縮緬と同じ糸を使うので「御召縮緬」、糸の段階で染色されるので「先染め縮緬」とも呼ばれるのはこのためである。

 縮緬は後で精練(糊を落とす)されるために、撚をかけられた糸が戻ろうとする力が干渉し合って均質なサラサラした生地になる。御召の場合、精練染色された糸で織られるために少しシャリ感があり、縮緬よりは不均質な感じがする。しかし、生糸で織られているので紬のような硬さがない。

 最近は御召が少なくなったけれども、戦前戦後は縞御召が女性の正装とされた事もあった。今でも男物は正装として用いられる。黒羽二重の紋付が男性の第一礼装であることは言うまでもないけれども、御召は色紋付として準礼装に用いられる。糸を先染めする為、抜き紋はできないので縫い紋が付けられる。私も冠婚葬祭には必ず着物で出席するけれども、この時着るのは縫い紋を付けた御召の色紋付である。

 羽二重は、わずかな水滴でも染みを作ってしまうけれども、御召は羽二重ほどデリケートではなく、紬よりも上質感がある。茶席で着られる男性の着物も御召が最適である。

 女性の場合も着安さという点では同じである。『きものは晴れ着』となってしまった現代は普段着として着る着物を着る人は少なくなってしまったけれども、着物を良く着る人にとっては御召は最適である。  最近、御召は余り見かけないけれども、御召を知る人に御召を見せると、
 「御召って今でもあるんですか。」
 と言う答えが返ってくる。その言葉の裏には、なつかしいような響きが感じられるのである。縮緬のしなやかさと紬のメンテナンスの良さを両方併せ持つ御召は、普段着として残したい着物の一つである。

 「御召」という名称は、江戸時代徳川十一代将軍家斉(いえなり)の時に先染めの縞縮緬が創られ、将軍がこれを好んで御召しになった為にその名が付いたと言う。

 徳川将軍と言えば、徳川家康が権現様。五代将軍綱吉が、お犬様。八代将軍吉宗が、あばれんぼう将軍?。そして、最後の将軍慶喜が十五代将軍として名高いけれども家斉の名は余り聞かない。   

  しかし、家斉は十五人の徳川将軍の中でも希有な存在である。1773年(安永二年)に生まれ1841年(天保十二年)に六十九歳で亡くなっている。将軍としての在位期間は1787年(天明七年)十四歳で登位してから1837年(天保八年)までの五十年間である。歴代最長である。そして、家康についで太政大臣に登りつめた只一人の徳川将軍でもある。四十人の側室を持ち、二十八男二十七女をもうけている。寛政の改革に着手し、晩年は政治の乱脈を極めたが、文化文政の町人文化の立て役者でもある。

 将軍の着道楽が着物の名称になる、と言うのは世の中が平和であった証左ではないだろうか。余り目立たない将軍家斉に、私は『御召将軍』の名を贈りたいと思うのだが…。


 

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