カテゴリー別アーカイブ: きもの春秋終論

Ⅶ-39 続「KIMONO」騒動(その2)

前述の如く、「KIMONO」と言う言葉は世界の多くの人達に認知されている。しかし、多くの人と言っても、それは全員ではなく、世界中全体から見れば少数の人達だろう。

そして、その理解度と言えば、とても日本人とは比べ物にならない。外国人でも「着物」の良さを十分に理解している人達がいる事は間違いないが、視覚的に「KIMONOはきれいだ」と思っている人、「KIMONOは日本の衣装だ」と知識で覚えている人などが多数派である。

日本人が「世界中の人達が日本の着物を理解し、着物は世界中で一番美しい衣装の一つだと思っている。」と思い込んでいるとしたら、それは日本人の片思いと言わざるを得ない。

パリコレクションやミラノコレクションの情報は瞬時に日本に伝わる。そして、それを評論する人も着て見たいと思う人も日本には沢山いる。現代の日本人は洋装が主体となっているのでそれは当然の事と受け止められる。しかし、その裏返しが日本の着物では決してない。

世界中のあらゆる国の文化は相互に伝えあっている現代だが、その伝搬の密度はそれぞれである。名前だけが伝わる。形骸が伝わる。神髄が伝わる等伝わり方はバラバラである。

洋服の文化は、日本にはほぼ神髄が伝わっていると言ってよい。それは世界に冠たるデザイナーが日本からも生まれていることからも分かる。数から言って少数かもしれないが世界のレベルで評価されるデザイナーを生み出すことは洋服の文化を十分に理解しなければできない事である。

そういう意味では、日本の着物は世界にまだほんの形骸を紹介しているに過ぎない。この度の「KIMONO」騒動はそのような状況で起こった出来事と解さなければならない。キム・カーダシアンさんは果たしてどれだけ「着物」を理解していただろうか。

着物を着ない日本人程度であっても着物を理解し「あれほど素晴らしい日本の文化である着物の名称を自分の下着ブランド名に使いたい」と思ったのだろうか。そうであれば「KIMONO」のブランド名は用いなかっただろう。

「日本の着物ってきれいだと聞くじゃない。それにKIMとKIMONOは音通になるから私のブランド名にぴったりだわ。」と言う簡単な気持で命名したのではないかと思う。

その動機は非難されるべきものではないかもしれないが、結果的に文化の伝搬の未熟さが生んだ結末と言える。

日本の着物が海外に紹介され称賛されることは、着物を扱う者としてとてもうれしい事である。しかし、私は着物に限らず日本の文化が海外に紹介され広まることに何か一抹の不安を感じていた。これについては以前にも何度か書いてきたけれども、日本の文化が果たして正しく伝わり、海外の人達が正しく受け止めてくれるのだろうかと言う疑問である。

つづく

Ⅶ-39 続「KIMONO」騒動

キム・カーダシアンさんの下着ブランド「KIMONO」は、名称が変更されると言う。正式に新しいブランド名が発表されていないので、どのように決着がつくかはまだ分からない。

「KIMONO」の商標登録云々の法的な事について私は良く分からないが、何故このような問題が起こるのかを考えて見よう。

まず事実関係を見て見ると、

➀日本には「着物」と言う衣装があり、それは日本独自の衣装として発達し、他の衣装とは区別して「着物」と言う名称で呼ばれてきた。

➁日本が諸外国と触れ合うようになると、外国人は日本の衣装である「着物」を「KIMONO」と称するようになった。それが何時からかは分からないが、文明開化が起きた明治時代には「KIMONO」と呼ばれていたかもしれない。ただし当時、日本の文化に接する事ができる外国人は極少数だっただろう。

➂更に時代が下ると、国同士の交流が活発になる。交通や通信の発達がそれに拍車を掛け、世界の必要な情報は居ながらにして手に入るようになった。日本では昭和30年代の高度経済成長期から加速度的に進んだ。

➃而して日本の情報は世界中に伝わるようになり、日本の衣装である「着物」も「KIMONO」として世界中から認知されるようになった。

このようにして「着物」は「KIMONO」として世界に伝わったのだけれども、上記の過程はあくまでも日本人の目を通した過程である。日本人は「KIMONO」と言う言葉が世界中に正しく認知されていると思っているかもしれないが、諸外国では「着物」をどう受け止めているのだろう。

世界が狭くなり、昔に比べれば文化の交流が遥かに活発になったのは確かである。日本の文物が世界中に伝わり、世界中の文物が日本に溢れかえっている。あたかも世界は一つになってしまったかのように錯覚するけれども現実はそうではない。

「着物」をはじめとして日本の文化は世界のどれだけの人達にどれだけ理解されているだろうか。最近着物を着ない日本人も増えたけれども、日本人の着物に対する理解は十分と言っても良い。着物が着れない人でも、着物の詳しい事を知らない人でも日本人は着物に対してそれ相応の意識を持っている。

日本人で「着物」または「KIMONO」の商標登録をしようとする人はいるだろうか。(私はそれが認められるものかどうかは知らない。)法的に認められるとしても日本の社会では「それをやっては・・・」と言う抑止力が働き現実にはできないだろう。それは「着物」と言う存在が日本人の誰しもが認めているからである。

さて、外国人の目に「着物」はどう映っているのだろう。

つづく

Ⅶ-38 「KIMONO」騒動

今「KIMONO」の話題がマスコミを騒がせている。キム・カーダシアンさんの下着ブランドの話題である。

キム・カーダシアンさんが創った「KIMONO」と言う矯正下着のブランド名が問題になっている。私は、キム・カーダシアンと言う名前も聞いたことはなかったし、矯正下着にも何の興味もなかった。

記事の題名を見た時には、「どこかのマイナーなデザイナーが着物の名を借りて何か商品を出している。」としか思わなかった。しかし、私の知識、認識不足だった。

キム・カーダシアンは世界的なデザイナーで、「KIMONO」を商標登録しようとしている。マイナーなブランドが気まぐれで「KIMONO」の名を使用するのとは訳が違っていた。私は、話題が大きくなりようやく事情が分かってきた。

矯正下着に日本の「着物」の名を冠したことに対して多くの批判が寄せられている。日本の着物と矯正下着が何の関係があるのか。日本人が大切にしてきた日本人の衣装の総称である「着物」を堂々と矯正下着のブランド名としたのである。

命名した本人、キム・カーダシアンさんはどのような気持で命名したのか。詳しい事は分からないが、多くの批判を受けながらもブランド名を変更する気はないと言う。それ程深い感慨はなかったのかもしれない。

一度商標登録が成立すれば他の業者は「KIMONO」と言う名称を使えなくなる可能性がある。事の重大性については、「きつけ教室すなお」のすなおさんが下記のYouTubeで詳しく訴えています。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=quk2dJreib0

また、下記のページで詳しく書いています。ページからChange.orgでの抗議の署名もできます。(私もしました。)

https://kimonoshake.jp/archives/4432

実際に商標登録は認められるのか、またその影響は?と言うと私は法律には詳しくなく、ましてアメリカでどう扱われるのかは分からない。

「KIMONO(着物)」と言う名称が商標登録できるのであれば、「自動車」「寿司」「酒」と言う言葉も商標登録できるのだろうか。はてまた「令和」と言う商標登録をアメリカでできるのだろうか。

元号が「令和」と決まった時、中国では「令和〇〇」と言う「令和」の名を冠した商標登録が激増したと言う話が有った。他の国や民族の大切にしている文化を金もうけの為のツールとして用いるのは許されることではないと思う。

しかし、現実にはそれがまかり通り、阻止できないでいるのが現状である。この事件は業界として余りにも大きな問題でどのような結果になるか見守ると共に微力ながら解決に努力したいと思う。

Ⅶ-37 またまた呉服業界の危機(羽二重がなくなる)その4

黒紋付の羽二重地に限らず姿を消しつつある織物や染物も出てきている。昭和60年の資料を紐解くと、当時既に消えそうな染織が多くあった。

秋田県秋田市 秋田八丈   企業数 1  従業員数 6
秋田県鹿角市 茜染・紫紺染 企業数 1  従業員数 3
栃木県益子町 益子草木染  企業数 1  従業員数 5
千葉県佐倉市 下総染    企業数 1  従業員数 1
千葉県館山市 唐桟織    企業数 1  従業員数 4
島根県安来町 安来織    企業数 1  従業員数 2
岡山県岡山市 烏城織    企業数 1  従業員数 2
熊本県熊本市 肥後絣    企業数 1  従業員数 3

いずれもその当時はまだ市場で(問屋で)耳にする事もあったけれども、30年経った今はほとんど聞かなくなった。まだ織っているとしても極少量かもしれない。伝統的な織物や染物が姿を消すのは呉服屋としてとても残念である。

しかし、ここに並べた織物や染物が姿を消すことは大変残念ではあるけれども、他の織物、染物で取って代われない訳ではない。秋田八丈がなければ本場黄八丈を、益子草木染が手に入らなければ他の草木染を、と言うように。

しかし、黒紋付の羽二重地が無くなってしまえばとりあえず取って代われる生地はない。「羽二重の男の黒紋付」と言うアイテムが着物から削除されてしまうのである。

帯地の塩瀬羽二重地もなくなれば「塩瀬の染帯」と言うアイテムはなくなってしまう。デュークエイセスの「女一人」と言う歌の歌詞に「結城に塩瀬の素描の帯が・・・」と言うのがあるが、この歌詞の「塩瀬の素描の帯」と言う帯はこの世に存在しなくなる。いや、手に入らなくなるのである。

帯や着物はまだ良いかもしれないが、私が心配しているのは着物を仕立てる時に必要な付属品が無くなる事である。

例えば男物の絽の半襟。問屋にはまだあるけれども、何時かなくなるのではないか心配でならない。男物の絽の半襟は年間どのくらいの需要があるだろうか。私の店では年間数枚である。色数も多いので、年間一枚も売れない色もある。

生産者は年間どの位作っているのだろう。仮に一社の独占であったとしても、その一社さえも採算を割ってしまう可能性も大いにあると思える。

このように、着物地や帯地に限らず付属品や小物が需要の減少により突然姿を消すことになれば呉服業界が一瞬にして崩壊することに繋がりかねない、と言うのは心配のしすぎだろうか。

羽二重地が完全になくなれば、おそらく女性の石持地のように縮緬を使う事になるかもしれない。
女性の喪服も昔は羽二重地だった。しかし、いつの間にか縮緬地に取って代わっている。男の紋付地も将来は同じように縮緬地か他の生地に取って代わられるのだろう。

それでも羽二重地の紋付が無くなるのはとても寂しく思う。張りのある羽二重の紋付を着た男性の姿は、縮緬の紋付では取って代わる事のできない凛々しさが感じられるのだが。

羽二重地は未だ流通在庫があるようです。

「紋付を誂えようと思っている男性の皆さん。今ならば間に合うかもしれません。お早めのご注文お待ちしております。」(笑い)←笑い事ではないのだけれど。

Ⅶ-37 またまた呉服業界の危機(羽二重がなくなる)

ブログを書き続けていて、読者には良い話、着物を着るのに希望が持てるような話をしたいと考えている。しかし、残念ながら避けては通れない様な暗い話ばかりが聞こえてくる。現在の呉服業界の問題提起として受け止めていただきたい。

先日、白生地屋さんがやって来て座る早々にこう切り出した。
「社長、羽二重がなくなります。」

呉服用語は複雑で使い方が曖昧なので、この言葉は何を意味するのか、「羽二重」とは何なのか詳しく説明しなければならない。

着物の生地には大きく分けて三種類ある。「縮緬」「羽二重」「紬」である。もちろん細かく分ければまだまだ種類はある。

「縮緬」は蚕から採った糸に強い撚りを掛けて白生地を織る。精錬した時に撚りが戻って表面にはシボと呼ばれる凹凸ができる。

「羽二重」は糸に撚りを掛けないで織った白生地である。撚りを掛けない為に表面は「縮緬」と違ってすべすべして光沢がある。よく使われるのは胴裏地である。真っ白なすべすべした胴裏は着物を着る人ならばすぐに分かると思う。

縮緬の友禅を袷で仕立てれば、表地の「縮緬」と裏地の「羽二重」の区別がよく分かる。他にも「羽二重」が用いられるものがある。染帯に使われる「塩瀬」と呼ばれる生地が羽二重地である。正確に言えば「塩瀬羽二重」と言う。

比べていただければわかるけれども、胴裏に使われる「羽二重地」と「塩瀬羽二重」はまるで違う。何が違うのかと言えば、その厚さである。「塩瀬羽二重」は帯に使われるので厚みがありしっかりとしている。糸の太さの差異によって生地の厚さが異なり、風合いがまるで違ってくる。それでもどちらも「羽二重」であることには変わらない。

「羽二重」の他の用途と言えば男性用の黒紋付である。結婚式の時に新郎が着る黒い紋付の生地である。結婚式では着ないけれども、女性の黒紋付(喪服)も以前は「羽二重地」だった。何時の頃からか「縮緬」が使われるようになり、今はほぼ全て「縮緬地」である。男性の黒紋付に使われる「羽二重地」は、胴裏地よりも厚地で「塩瀬羽二重」ほど固くはない。厚地のものでもとてもしなやかである。日本の着物地は長い時を経て用途に合った生地を生み出してきたと思う。

さて、その白生地屋さんが言った「羽二重」とは、この黒紋付用の「羽二重地」の事である。
業界で胴裏のことは「胴裏」と言い、「羽二重」と言う事は少ない。「塩瀬羽二重」は「塩瀬」と言い、「羽二重」とは言わない。業界内で交わされる「羽二重」と言う言葉の多くはこの黒紋付地を差して言っている。

その白生地屋さんが言う「羽二重」とは、この黒紋付地である「羽二重地」がなくなると言う話である。

つづく

Ⅶ-36 単衣の着物は何時から着るべきか(その3)

「単衣の着物は何時から着るべきか」、その答えとして私は自分に次のように言い聞かせている。

・衣服本来の機能は体温を保持する事である。それに逆らうのは自然な姿とは言えない。

・従って普段着に関してはその時々の気候に合わせて着物を選ぶことは何も差し支えない。「暑い日には単衣を、寒い日は袷を」と言うように。

・しかし、日本には季節感を大切にする伝統があり、それは日本の精神文化においても決して無視できない大切にすべきものである。

・晴の場においてはその伝統にのっとって着物を選ばなければならない。

・そうすると、暑いのに袷を着なくてはならない場合が生じる。これが、「単衣の着物は何時から着るべきか」の疑問に通じている。

・晴の場で暑い日に袷を着なくてはならない場合。その時は、「体温を保持する」と言う目的に則した方法はいくつもある。
「胴抜き仕立てにする」「晒の半襦袢を着る」「麻襦袢に塩瀬の半襟を付ける」等々

・普段着で袷の時期に単衣を着る場合は、できるだけ袷のような色柄(寒々としない)の単衣を着る。帯も同じである。

以上が、私が袷の時期に単衣を着る時の心得である。

さて、ここで大事なのは、私の心得が全国どこでも全て通用するとは限らないことである。私が思っていることは私の自己満足である。自分で自分を否定しているようだけれども、着物のマナー(特にTPO)のトラブルはここから起こっている。

即ち、全国統一で守るべき着物のマナーは唯一である、と言う考え方が混乱を招いている。「五月は袷を着なければならない。単衣を着てはならない。」と思っている人は相当にいるように思われる。「こんなに暑いのに黙って袷を着ている自分は着物の伝統を正しく守っている。」と言う事だろう。

五月に袷を着るのは、しきたり通りでありそれで間違いはない。しかし、広い?日本には色々な人がいるし色々な生活風習がある。晴の場で着物を着る事はなく、茶道にも縁がなく、ただ着物が好きなので普段着物を着ている人もいるだろう。その人が袷の時期に単衣を着ていても誰も何をいう事でもない。

逆に、お茶や習い事をしている人達にとって守るべきは師匠の教えである。どんなに暑かろうと師匠が袷を着ると言ったら袷を着なくてはならない。

そう言った色々な人たちに「単衣の着物は何時から着るべきか」を問うのは回答のない問題を提示するようなものである。

袷の時期に袷を着た人と単衣を着た人が出会ったとしたら、

「いやー、今年は格別暑いですね、私はたまらず単衣を着てしまいました。」

「あら、涼しそうで良いですね。私はこれからお茶会に行くので袷を着ていますが、実は中の襦袢は麻を着ているんです。」

「ああ、それなら涼しいでしょう。」

「それにしてもステキな単衣の着物ですね。」

「いや、あなたこそきちんと袷の着物を着て、とても素敵ですよ。良いお茶会になるといいですね。」

そんな会話ができない物だろうか。

Ⅶ-36 単衣の着物は何時から着るべきか(その2)

しきたりとして衣替えが行われるようになったのは何時ごろからだろう。

平安時代には年に二回、夏服と冬服の衣替えが行われていたと言う。江戸時代には四回行われ、庶民もこれに習っていたと言う。宮中や殿中では、しきたりと四季の風情を重んじて衣替えは厳格に行われていただろう。そして、庶民もそれに倣っていたとすると、さすがに日本人の季節の移り変わりに対する思いを感じる。

しかし、実生活で庶民は厳格にしきたりを守っていただろうか。年毎の気温の変動は少なからずあったはずである。冷夏や暖冬も幾度となくあっただろう。寒い夏に我慢して薄着をしていただろうか。夏が早く来ても袷を着ていただろうか。庶民は、衣服の本来の機能である体温の保持を第一に考えて着物を選んでいたと思う。

普段着に限っては、暑い時には涼しい、寒い時には温かい着物を着ていただろう。もちろん季節のしきたりには気を使っただろうけれども、寒くても我慢して単衣を着たり、暑くても汗だくになって袷を着るようなことはなかったはずである。

最近は地球温暖化の影響なのか、昔に比べて気温が上がっている。昨年の猛暑は言うまでもなく、山形でも昔はもっと雪が積もった記憶があるが、今はそれ程雪が降らなくなった。

四月ともなると暑い日がある。暦の上では袷の季節なのだけれども、袷を着ていては汗だくになる日もある。

先日、イベントで着物を着たけれども、暑いので単衣を着た。五月には毎年料理屋のお祭りで給仕を手伝っているのだが、走り回るのでいつも単衣に麻襦袢を着ている。しきたりを重んじる?着物の先生からはお叱りを受けるかもしれない。それでも袷を着て走り回る気にはどうしても為れない。
さて、「単衣の着物は何時から着るべきか」を考える時、「季節による着物のしきたり」と「体温を保持すると言う衣服本来の機能」をどのような整合性をもって臨めばよいのかを考えなければならない。

まず一つ言える事は、普段に着る着物は、しきたりに束縛される事無く衣服本来の機能を優先させるべきである。寒ければ厚着を、厚ければ薄着をするのは洋服に限らず古今東西の民族衣装の常識であろう。

そういう意味では普段着の場合、単衣は四月の暑い日には着ても構わないだろうと思う。実際、私は汗の出るような四月の暑い日に袷の着物を着る気にはなれない。

ただし、気を付けなくてはならない事がある。

やはり日本の着物は季節感を大切にする。袷の季節とされている五月に単衣を着るのであれば、できるだけ単衣を着ていることを気取られない着方をすることである。

例えば、同じ単衣でも色の薄い白っぽいものは避ける、帯もそれに準じたものを締める。どうしても暑くて夏襦袢を着るのであれば、半襟を袷様にする等。

ちょっとした工夫、気遣いで普段着を着る事が大切と思う。

つづく

Ⅶ-36 単衣の着物は何時から着るべきか

毎年、この時期になると私の頭を悩ませる問題が頭をもたげる。表題に記した「単衣の着物は何時から着るべきか」と言う問題である。

私は何も気にせずに、自然に単衣を着るべき時に単衣を着ているが、お客様からは次の様な質問が寄せられる。
「単衣は何時から来て良いのですか。」
「五月に結婚式があるのですが、単衣ではまずいでしょうか。」
「お茶会で友人が、暑いから単衣で行くと云うのですが、六月前に単衣を着ても良いのでしょうか。」

この件に付いては、これまでも何度も陰に陽に触れてきたつもりだけれども、改めて論じたいと思う。

このような質問が寄せられるのは、「五月までは袷、六月は単衣」と言う暗黙?のルールがお客様の頭を悩ませているからである。

確かに着物のしきたりを説いた本には「五月までは袷、六月は単衣」と書いてある。まして着物を始めて着る人達、または着物を着る自信のない人達は何を着ればよいのか、不安を覚えてしまう。

着物を着る事に不安を覚えれば、着物を着たいと言う気持ちも萎えてしまうのではないかと私は心配になる。

着物には、袷、単衣、薄物の三種類があって、季節により衣替えする事は着物を着る人であれば誰でも知っている。

日本の風土は、四季の区別がはっきりしており、三十度を超える(最近では四十度を超える)暑い夏があると思えば、凍てつく寒さと雪の降る冬もある。日本人はこの自然現象を四季折々の風景と捉え生活の中に生かしてきた。衣装のみならず食べ物や住まいの設えなど、いわゆる衣食住全てにおいて季節の変化を受け入れ、それを生活に生かしてきた。

私は、このような季節を巧みに生活に取り入れた日本文化は人々の暮らしをより良い物にしていると思っている。着物の衣替えもこの季節の変化を巧みに反映させている。

季節の変化は、我々日本人の生活を豊かにする物であり、着物の衣替えもそれに即した物でなければならない。しかし、生活を豊かにするはずの衣替えが着物を着るのを躊躇させるのであれば、どこかでねじ曲がってしまったのではないだろうか。

袷から単衣に衣替えをする時期は必ずある。巷で言われているのは五月と六月の境目である。先に期したように物の本ではそのように言われている。

そのような先入観を抜きにして考えてみよう。昔の人は何時袷から単衣に衣替えしたのか。「昔」と言うのは、明治時代や江戸時代ではなくもっともっと昔の話である。

縄文時代や弥生時代に、袷や単衣と言った衣装があったかどうか分からないが、日本に袷や単衣といった衣装ができた時代の事を考えて見よう。その時代の人達は何時袷から単衣に衣替えしたのか。言うまでもなく、それは暑くなった時、袷を着ていて暑いと思った時である。

袷や単衣は、薄物も含めて人間の体温を維持するための工夫である。その為に暑ければ単衣に替え、寒ければ袷に着替えただろうことは、その時代に生きていなかった私でも容易に分かることである。

そう言う自然な衣替えでは、一度単衣に替えた後、急に寒くなり再び袷を出して着ることもあっただろう。最近は天候不純で暑くなったり寒くなったりして、セーターを出したり仕舞ったりすることもあることを考えれば頷けると思う。

しかし、着物の世界では、袷、単衣、薄物に衣替えをする時期がはっきりと決められている。その年の気候、温度の変動を加味することなく、毎年同じ日時に衣替えをしなければならない。これは、一見衣服の本来の目的である体温を保持して生命を守る、と言った目的に合致しないように思われる。

つづく

番外 「十連休・一回休み」

今年のゴールデンウィークは十連休である。天皇陛下の御退位、御即位が下さった国民の長期休暇である。

十連休と言わず、私には二連休以上の休みは、ここ数十年間皆無である。我々小売業は人が休む時働き、人が働いているときも働くのが生業である。私にはこの連休は、十連休どころか全く休みはなかった。

この度の十連休は、果たして来街客がどのように動くのか、皆目見当がつかなかった。満遍なく人が出るのか、それとも皆海外に行ってしまって街には人が出ないのか。あるいは前半は出るが、後半は疲れて街は静かになるのでは、と言った憶測が飛び交った。しかし、来街客には手を抜いて待つわけには行かない。

私のもう一つの生業である七日町御殿堰開発(株)は4月28日に開業九周年迎えた。十連休とも重なり、開業周年イベントを八日間続ける事になった。毎日毎日イベントに明け暮れ、ブログを書く暇もなかった。

と言う訳で、言い訳がましいが、今週は一回休みとしますので宜しくご査収願います。

Ⅶ-35 きものの産地、京都(その2)

仕入れで京都へは年間一回になってしまったが、東京へは度々上京している。東京にも問屋がありマメに仕入れをして店の商品管理を行っている。

それでは、わざわざ京都に出向く必要もないだろうと思われるかもしれない。しかし、京都に出向かなくてはならない事情がある。

先に記したように、昔の問屋は商品が豊富だった。何時伺っても目当ての商品があった。呉服問屋は慣例的に毎月初めに売り出しをする。通常、販売員は商品を持って全国に営業するが、月末には商品共に戻って来て月初めの売り出しに備える。月初めの売り出しに行けば豊富な商品に出会えたのである。

しかし、今の問屋はかつての力はなく商品を持っていない。在庫を抱える余裕がなくっている。従って月初めの売り出しと言えども、商品を求めようとする小売店が満足するような品揃えができていない。

京都の問屋は、その地の利を生かして年に数度大きな展示会を催す。会場は自社ビルではなく、産業会館や国際会議場と言った広い会場で展示会を行う。その時には自社の商品だけでなく、染屋や織屋の応援を得て品揃えをする。染屋や織屋が自社の商品を持って会場に出向く。その時ばかりは多くの商品に出会う事ができる。

そんな展示会を狙って京都に出向くのである。そして、多くの染屋さんや織屋さんと直接出会えるので、色々な情報を仕入れる事ができる。

生産現場の情報はとても有用である。自分が必要とする商品はどこで創っているのか。昔あった商品は今創っているのか、等。しかし、残念ながら彼らの情報の中には、「あの織屋さんはもうやめました。」「それは、もう作ってないと思います。」と言うようなネガティブな返事が多くなってきた。

自分の店で揃えなければならない商品が、今染められているのか、織られているのかと言う極基本的な情報に神経をとがらせなければならない昨今である。

「きものの産地、京都」は、昔の様に、「着物に関しては、探せば何でも見つかる。」と言った印象は薄れてきた。しかし、それは京都のメーカーが悪いのではない。業界が縮小することによって生じた必然的な結果である。

これからの着物業界は、私のような零細な呉服屋にとって益々商いが難しくなるかもしれない。しかし、何とか伝統を守り、お客様に良質な着物を届けたいと思う。