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Ⅶ-17 着物難民

先日、店にやってきた問屋さんと話していると「着物難民」と言う言葉を聞いた。
「今に着物難民が溢れますから、お宅の店に殺到するかもしれません。」
と言う話だった。「着物難民」とは何だろうか。

着物を取り巻く環境は大きく変わってきている。私が子供の頃、私が京都にいた頃、そして現在、環境は色々な意味で大きく変化している。

環境が大きく変わった最大の原因は、何といっても需要の急激な減少である。

1980年当時、市場規模が2兆円と言われていたが、某経済研究所の調査では2015年に3,000億円を切り、2,805億円だと言う。35年で何と市場規模が七分の一になってしまった。呉服業界の市場は、着実に且つ急激にその規模は減少している。

市場規模の減少は、流通する商品の減少を意味する。その結果、その流通を担っている問屋や呉服小売店も減少している。

問屋の減少は顕著なものがある。かつて京都の室町通りは呉服問屋の街だった。五条の辺りから御池通の辺りまでは呉服問屋が隙間なく軒を並べていた。もちろんその周辺も埋め尽くすように呉服問屋があった。通りは積み荷を降ろす問屋の車や配送する運送会社のトラックでいつもいっぱいだった。

しかし、今日室町通りを歩いてみると、問屋はまばらで、かつてあった問屋の跡は駐車場やマンション、電機屋などに姿を変えている。そして、東隣の大通りである烏丸通りの迂回道路として南進の車が走っている。

昔は問屋が星の数ほどあった。当時、問屋の社員は独立するのを夢見ていた。優秀な社員は次々と独立して、問屋は細胞分裂するが如く増えて行った。

私の店に来ていた出張員も独立して別な出張員が来ていた。そして、その出張員もまた独立して問屋を始めて通って着ていた。次の出張員も独立して、一時は同じ問屋にいた三人が問屋を始め、元の問屋と合わせて四つの問屋と付き合っていたこともある。

しかし、今問屋の数は激減し、私の店の問屋さんの名簿は次々に消され、昔から取引のある問屋はほんの数社しか無くなっている。

問屋の数と共に、小売屋の数も減少している。それでも小売屋の減少は問屋に比べてかなり時間差があったように思う。業界規模が縮小し、問屋の数が減る中で小売屋の数はなかなか減らなかった。ある小売屋が店を閉めても、番頭たちが独立して商売を始める、と言う事もあって出入りの問屋さんに聞いても、「小売屋さんは減りませんね。結構しぶとく商売していますよ。」と言う声が聞かれた。

しかし、ここ十年位で小売屋の数は減っている。京都にいた時分、音に聞こえていた地方の大手の呉服屋が次々と店を閉めたと言う話を聞く。「あんな立派な呉服屋が?」と耳を疑うようなニュースが飛び込んでくる。山形でも私の店の周辺で店を閉じた呉服屋は5軒にのぼる。中には、後継者がいなくて閉じた店もあるが、売上の減少によって閉店を余儀なくされた小売屋も相当にある。

つづく

Ⅶ-16 絹(その4)

その白生地屋さんの話によると、白生地の織屋さんが、輸入糸の価格や品質に振り回されるので嫌気を指し、全て昔ながらの国産の白生地を織ったという話をしていた。

国産の繭から国内で糸を引き、国内で白生地を織る。もちろん精錬の日本である。そうして出来上がった白生地は、価格が一反270,000円になったという。

「一反が270,000円の白生地なんて、余程高名の友禅作家ぐらいしか使えませんよね。」
そう言って、笑ってはいたけれども、その裏には白生地に対する危機感が感じられた。しかし、・・・。
「昔は絹の白生地ってそんなものだったんじゃないでしょうか。」
二人でそう言って顔を見合わせた。

「正絹」と言う言葉がなくなり、安い絹が出回り、絹が高級品であると言う感覚がマヒしていたのではないだろうか。270,000円の白生地など私は見たこともないし、祖父の時代も物価は違えども、絹はそれ程高くはなかっただろう。

しかし、もっとずっと以前。江戸時代はどうだろう。現代とは貨幣価値や比定する物がないので一概に物価水準は測れないが、今でいう270,000円以上の価値はあったのではなかろうか。

その時代、普通の町民は絹を着る事はなかった。絹の着物をまとえたのは、余程裕福な豪商の人達である。奢侈禁止令が出れば、羽織の裏に豪華な裏地を張って競い合ったと言う。絹地を「正絹」と言い、僅かな切れ端でも大切にしていた。

そして、更に昔、シルクロードの時代に絹は更に高価だった。

漢の時代、中国では絹1キログラムは労賃の6.4日分であったと言う。着物にする反物は一反7~800グラムである。従って白生地一反は約5日分の労賃と言う事になるだろうか。5日分の賃金と言えば、月給の約1/4にあたる。月給が人それぞれに違うので一概には言えないが、絹の反物一反が当時いくらぐらいかは想像できる。

そして、その絹地がシルクロードを渡って遥かローマにもたらされた時には、何とその230倍で取引されたと言う。具体的に現代に比定すればローマでは絹一反いくらで売買されたのだろう。

国税庁が発表した2016年の民間平均給与は421.6万円。月にすれば約35万円である。絹一反が月収の1/4とすると、約9万円になる。そして、ローマではその230倍である2,070万円と言うことになる。果たして本当にそんな値段で取引されたのかどうか分からないが、ローマでは絹の高騰が金の流出を招き、帝国の弱体化につながったとも言われている。

日本で絹織物が盛んになるのは明治に入っての事なので、江戸時代には生産性が悪く中国よりもずっと高かっただろう。縮緬の白生地一反270,000円と言うのは絹の本質的価値から言えば、そう現実離れした価格ではないかもしれない。

そうは言っても、絹は安いに越したことはない。極一部の金持ちしか着れない着物ではなく誰でも正絹の着物を着ていただきたい。それが今日、安価な海外の絹がそれを現実化している。

しかし、安価な海外の絹によって日本の絹が駆逐されかかっている。日本で大切に品種改良されながら育てられた高品質の絹が姿を消そうとしている。日本の絹がなくなろうと、絹であれば海外の物でも良いと言う考え方もあるかもしれない。しかし、その考えも通用しなくなりつつある。

日本以外にも絹の需要が増え、絹が日本に周ってこなくなる可能性もある。それが証拠に輸入される絹の価格が上がっている。日本産の絹にはまだまだ及ばないけれども、じわりじわりと絹の価格は上がっている。このまま行けば、絹の価格は高騰し、ややもすると入手さえ困難になるかもしれない。その時、日本は、呉服業界はどうするのだろう。

その頃は日本の蚕糸業界はほぼなくなっているかもしれない。蚕を育てる技術さえなくなっているだろう。もともと日本で育てた高品質の絹はなくなり、高価な海外産を買わざるを得なくなるのだろうか。

蚕から糸を採り、織り上げて精錬された「宝石のような縮緬」と言うのは唯の例えではない。今こそ日本の着物の素材である絹についてもう一度考えて見る必要があるように思える。

Ⅶ-16 絹(その3)

既に何年の前から日本の繭の生産は政府の補助金で支えられてきた。補助金により国産糸の価格は安く抑えられてきたが、それでも輸入品とは数倍の差があった。白生地屋さんが言うには、補助金がなくなれば、国産絹織物は現在の価格の三倍程度に跳ね上がるという。

白生地でも同裏地でも価格が三倍になれば、実質買い手はいなくなり、国産絹の生産は終了するのと同義である。

さて、先日白生地屋さんが店に来て白生地の話をした。最近、問屋さんが来て話をすると、良い話はない。問屋や小売屋が店を閉めた話や景気の悪い話などである。この度も、「白生地の織屋さんが一軒やめることになりました。」と言う話と共に「白生地がまた上がります。」と言う。

海外から安価な絹糸が輸入され、絹製品の価格は安くなっていたのだが、数年前から価格が上がり始めた。白生地屋さんが来るたびに「○○が上がります。」と言うのが繰り返されていた。どうして輸入絹糸の価格が上がり始めたのか。

絹糸が輸入され始めたとき、中国をはじめとする絹の輸出国はまだ開発途上だった。それらの国々は急激に発展を遂げている。中国に限って言えば、ご存じの通り、人件費が高騰している。中国に進出した企業が、人件費のメリットがなくなった為に国内に工場を戻す動きも見える。人件費の高騰は絹糸の輸出価格を押し上げている。

また、経済的発展を遂げた中国では、絹の売り先を日本に限らず他の国もそのターゲットにしている。初期の稚拙な生産設備であれば、輸出先は技術協力も得て日本くらいしかなかったのかもしれないが、ヨーロッパをはじめとして絹糸に対して感性の高い国にも輸出を広げている。そこには「どちらが儲かるか。」と言うごく当たり前の判断が伴っている。

中国の産地の中には繭から絹糸を作らずに、真綿の生産に切り替えているところもあると言う。必ずしも日本の呉服業界のみが輸出のターゲットではなくなっている。

また、生活程度が向上することによって、自ら絹を消費するようになり、必ずしも絹糸の生産が輸出の為だけではなくなってきている。これは、絹に限らずあらゆる贅沢品に見られる。

世界中のマグロをほとんど消費していた日本は、海外でも寿司が食べられるようになり、日本にマグロが入らなくなっている。コーヒーもモカが貴重品になっているらしい。香木もしかりである。

今後、益々絹糸は高騰するかもしれない。高騰で済めば良いが、世界中で絹糸の奪い合いに成った時、既に国内生産するすべがなく国内では供給できない。となると果たして白生地の運命は、呉服業界の運命はどうなるのだろうか。

つづく

Ⅶ-16 絹(その2)

何故海外の絹は安いのか。一つには、為替、人件費の差がある。かつて中国の人件費は安く日本とは比べものにならなかった。人手を使う絹の生産に日本の人件費は高く、絹は高額なものとなった。

それともう一つは、日本の絹生産の品質管理である。日本の繭は数百年にわたって品種改良し、世界でも冠たる品質を有している。良質の繭は、糸が細く均質である。その品質を守るために日本の養蚕農家は手間暇を掛けて繭を生産している。その結果、糸も高額になる。中国やブラジルでは、粗製濫造とまでは言わないまでも、日本の養蚕ほど手を掛けていない。安く大量に生産することによって輸出して外貨を稼いでいる。

海外の繭と日本の繭の価格の差はいかんともしがたい。安価な海外産の前に国産繭は価格的にはひとたまりもない。海外産の繭に国産繭は駆逐されていった。

実は品質において両者は雲泥の差がある。しかし、日本人の「絹」と言う言葉に対する信仰がかえって海外繭の流入を促進することになる。「絹がそんなに安く入るのならば・・。」と言う気持ちだっただろう。それまで絹を使わなかった繊維製品も絹地のものが作られ、呉服においても安価な輸入品が流入する。

それでも呉服業界、とりわけ白生地業界においては品質の保持にはかなり気を遣っていたように思う。生産された繭から縮緬や羽二重の反物になるには、いくつもの工程をある。大きく分ければ「製糸」(繭から糸を作る)、「製織」(生地を織る)、「精錬」(繊維に付着した糊セリシンを落とす)等の工程がある。

海外の絹が入ってきた当時、様々な試みがなされたようである。全ての工程を海外の安価な労働力に任せた場合、やはり不都合が起きたのかもしれない。海外の絹が呉服業界に定着してきた頃、反物の品質表示には「製織地 日本」とか「精錬地 日本」と言う表示もあった。糸は海外の物を使うとして、どれだけ日本の伝統技術を製品に注入するのかと模索したのだと思う。

安い海外産の絹が入ってきて価格的に無視するわけには行かない。さりとて品質のいい加減な反物を市場に流すわけには行かない、と言う葛藤があったのではないだろうか。

結果的に海外品の流入は繭の生産者を直撃した。かつては全国各地で繭は生産されていた。私の家の蔵も、昔蚕を飼っていた蔵だと言う話である。山形市にも養蚕試験場があった。子供の頃、そのゴミ捨て場に蚕を拾いに行った物だった。全国には名だたる繭の産地も多く存在した。今日に名を遺す名だたる繭の生産地以外でも繭は生産されていた。

しかし、徐々にその数は減って行き、現在組織的に繭を生産しているのは、群馬県と山形県のみになってしまった。そして、その生産量は激減している。そして、それらの産地でも間もなく繭は生産できなくなると言う話である。

つづく

Ⅶ-16 絹

着物や帯を含めて呉服製品の多くは素材が絹である。綿や麻、ウールその他化学繊維の製品もあるが、晴れ着である訪問着から普段着の紬まで絹素材のものが多い。

「正絹」と言う言葉がある。最近はあまり使われなくなったが、私は昔の癖でお客様に「正絹です。」と言ってしまうのだけれども、若い人の中には「正絹」と言う言葉を知らない人も多い。
「正絹」とは、文字通り混じりけのない絹製品であることを意味する。「混じりけのない絹」というのは、絹100%と言う意味である。「正絹」と言う言葉が使われなくなったのは通商産業省(当時の)の政策が絡んでいる。

昔は絹100%の製品に「正絹」の品質表示タグがついていた。同じように綿100%の製品には「純綿」と言う表示もあったと思う。しかし、いつ頃の事だったか忘れたけれども、通商産業省が品質表示を統一するために、繊維製品には「○○・××%」と言う表示を義務づけた。その為に「正絹」や「純綿」と言う言葉は正式な品質表示とは認められなくなり、表記からは消えてしまったようだ。

さて、この「正絹」と言う言葉を知っている人は、この言葉の奥に「とても貴重なもの」と言う意味を感じていたはずである。絹イコール貴重品、と言う意識が「純絹」ではなく「正絹」と言う言葉を生んだものと思う。

私が子供の頃、親や祖父の言う「正絹」と言う言葉にはなにやら重みを感じていた。子供の時分にはそれが何なのかはわからない。子供の私には、絹も綿も区別もつかず同じ布にしか見えなかった。着物の生地も雑巾の生地も違いが分からなかったが「正絹」と言う言葉には特別な意味を感じていた。

私が小学校の時、工作で布が必要だったので店にあった着物の切れ端をもらって作っていたら、「なんだ、工作に正絹を使っているのか。」と父に言われたことがあった。叱られたわけではないのだけれども、その時私は何か大それたことをしたのだろうか、と感じていた。

昔は絹をとても大切にしていた。着物を仕立てた残り裂は仕立てた着物と一緒にお客様にお返しする。こんな小さい端布を一体何に使うのだろうかと思っていたが、当時の大人達はそれをとても大切にしていた。

絹イコール貴重品、と言う意識は知らず知らずに私の心に染みこんでいた。

しかし、昔に比べれば絹はとても安く身近なものとなっている。着物に使う反物も安くなっているが、着物以外に絹の洋服やタオル、ジーンズまで出回るようになった。絹の日傘も作られている。絹がより身近なものとして生活に入り込んできている。

何故絹が安く大量に出回るようになったのかと言えば海外からの輸入が原因である。中国やブラジルから安価な絹が大量に入るようになったのである。

もともと絹は日本の殖産産業で、明治時代に外貨を得るための輸出品として富岡製糸工場をはじめ、全国で生産された。輸出羽二重と言う言葉が示すとおり、絹糸や絹織物は日本の輸出品ナンバーワンだった。しかし、それが大量に輸入されるようになった。

つづく

Ⅶ-15 呉服の流通に関する気になる動き(その5)

創業して2年と経たない会社が年間3億8000万円(公表値4億8000万円)の売上を創り急成長を見せていたが、結局6億とも10億ともいわれる負債を抱えて倒産している。

「はれのひ」の経営者の無能は指摘されて当然だけれども、それを支えた浮き貸しで商品を供給した問屋側にも責任がある。進んで商品を提供した問屋の中には数千万円の商品代が未回収になったところもあるが、それはその問屋が責任を持てばよい事である。しかし、責任はそれで終わらない。振袖を着られなかった人達、預けた振袖が戻らない。一年二年先の予約金が戻らない、など金銭では片付けられない問題が付いて回る。

「はれのひ」だけでなくこのような倒産は以前から何度となく起こっている。「友禅の館」「たけうち」「愛染蔵」等々、大型倒産が起こる度に決まって大手の問屋が債権者に名を連ねている。数千万円から数億円の損を出しながら凝りもせずに問屋が何故次々と浮き貸しを続けているのか理解に苦しむ。

しかし、やはり大きな問屋では大きな売り上げを創っていかなければならない。一方で買取をする小売屋は激減している。買取を続けている(当社のような)零細な小売屋を相手にしていても売上は上がらない。まして算盤を弾いて値段の交渉をしていては手間も掛かり、利幅も小さくなる。

染屋織屋が問屋に商品を貸してくれるのであれば、大風呂敷を広げる業者に浮き貸しして大きな売り上げを創ったほうが簡単でリスクも少ない、と考えているのだろう。

こうした事が行われると、問屋自身がどのような商品を流通させているか分からない。消費者にいくらで販売されているかも分からない。と言うよりも責任不在となる。問屋は、ただの商品を仲介する業者に過ぎなくなってしまう。つまり、呉服そのものを考える事もなく、業界の将来を考える事もない、利益を求めるだけの流通に他ならない。

目先の売上だけを考えずに、呉服の将来、業界の将来像を考えながら呉服を流通させなければならないと私は思っているが、どうも反対の方向へ行っているらしい。

それにしても、「はれのひ」のような業者が出るたびに商品を供給し加担し、その度に倒産に合って莫大な負債を創りながら凝りもせずに繰り返しているは不思議でならない。一方で地道に買取をしている小売屋を相手にしなくなるとすると、呉服の将来はとても心配になるのである。

Ⅶ-15 呉服の流通に関する気になる動き(その4)

呉服の需要が減り、売り上げが減ってくると小売屋も余り商品の買取をしなくなった。と言うよりも売り上げの減少に比例して買い取る量も少なくなってきた。問屋としては売り上げ減少に歯止めを掛けなければならない。

そこで始まったのが大規模な展示会商法(消費者セール)である。問屋が商品を並べ、小売屋がお客様を連れてくる。お客様が買った分だけ小売屋の仕入れとなる。買取をしたくない小売屋と売り上げを創りたい問屋のタッグマッチである。

この大規模な展示会では、問屋自身も商品を買い取らず浮き貸しで調達しているケースが多い。即ち、問屋が染屋織屋から商品を借りて展示会場に並べる。結局、問屋も小売屋も在庫負担はなく、染屋織屋がその負担を負うことになる。

染屋織屋にしても売上を創る為にはそういった展示会には乗らざるを得ず、次第に広まっていった。

展示会の商品は、染屋織屋、問屋、小売屋のリスク回避の経費を背負って莫大な価格となって並べられる。それでも呉服の商品相場に疎い消費者は、適正な価格の数倍で購買してくれる。

このような流通に慣れた業界では、更に大規模に展示会を催して売り上げの確保を図っている。問屋は、より大規模により多くのお客様を集める業者に傾倒し、商品を注ぎ込んでゆく。

一回の展示会で数千万円の売り上げを創る小売屋であれば、問屋は惜しみなく商品を用意して投入する。そうした商売に慣れた問屋は既にそれが商売の主流になってきている。商品をかき集めて浮き貸しして多大の売上を創る。そのような問屋では、もはや中小の小売店が買取をする金額などは物の数ではないのだろう。

最近、私が憂慮するのはこの点である。

問屋の中には、昔は買取を歓迎していたが、最近変わってきたところがある。商品仕入れに赴いても、余り歓迎されないのである。商品を買い取り、返品せずに代金を支払う、と言う商売の基本的な事を忌避するのである。

大手の問屋にとっては、中小の小売屋が買い取る金額など多寡が知れているのかもしれない。また小売屋の中には買取をしない小売屋も増えている。しかし、大規模な展示会に浮き貸しとは言えども大量の商品を投入すれば大きな売り上げが得られる。価格も、買取の様に算盤を弾いて値引きに応じる必要もなく、大きな利幅で売り上げができる。買取などあてにしたくない気持ちも分からない訳ではない。

しかし、このような流通体系には大きな問題が伴う。

つづく

Ⅶ-15 呉服の流通に関する気になる動き(その3)

浮き貸し取引は、借りた商品で商売をすることである。商品を借りて商売するのであれば、小売店の在庫負担はなくなる。また仕入れて売れない商品(デッドストック)のリスクはなくなる。浮き貸しは、小売店、呉服店としては真に都合の良い取引制度である。

しかし、問屋にしてみれば、沢山の商品を小売屋に貸して売れない商品が大量に戻って来る、と言う事になると、問屋の在庫負担は莫大なものとなる。それだけに染屋織屋から買い取った商品がデッドストックになる危険性も増大する。

そういう訳で、浮き貸しと言う制度は、問屋にしてみれば余り切りたくないカードだった。問屋が染屋織屋から買い取った商品を小売屋にしっかりと買い取ってもらう。そう言った取引が業界としても正常な取引と言える。

しかし、着物が売れなくなるにつれて、様々な商法の出現と共に浮き貸し取引は増えてきた。
昭和30年代には既に各呉服屋では展示会が行われていた。商品を一堂に展示して消費者を動員して着物の需要を喚起していた。展示会で並べる商品は店の在庫だけでは足りないので問屋さんに応援を頼んだ。問屋さんが商品を持ち寄り、店の在庫と共に展示会場に並べた。問屋さんの商品が売れれば、その分を仕入れとした。

当時はまだ展示会は年に1~2回。2~3日間の催しだった。問屋さんの在庫をそれ程圧迫するものでもない。応援する問屋さんも、お付き合いの範囲として商品を持ってきてくれたのだろう。

私が京都にいた当時(昭和50年代後半)、私が勤めていた問屋は、ある百貨店と取引していたが、商品は全て委託(浮き貸し)だった。長い間商品を百貨店に預けて売れた分だけ入帳する(売上に挙げる)。戻ってきた商品の一部は、長い間店頭に置かれていた為汚れているものもあった。それらは全て問屋が処理しなければならない。

その頃から大規模な展示会を催す業者が増えてきた。体育館のように広い展示会場に大量の商品を集めて消費者を誘う商法である。「友禅の館」「愛染蔵」「たけうち」などがその例である。それらが展示する商品は全て「浮き貸し」によるものである。

尚、今挙げた三社は、後に多額の負債を抱えて倒産している。これも覚えておいていただきたい。

業界で浮き貸しの取引が増える中で、それでも問屋は買取をしてくれる小売屋を欲していた。支払いが間違いなく、返品の無い小売屋は問屋にとってはありがたい存在だった。

私の店も仕入れには厳しく算盤を弾いて、問屋にとっては浮き貸しよりも利幅が少ないにも関わらず、問屋さんは付き合い続けてくれた。商品を店に持ち込んでは広げ、小売店向けの展示会があれば案内状を持ってきてしつこく来店を促された。一反でも多く小売屋に商品を買い取ってもらいたいのが問屋の本音で会った。買取商売は、やはり商売の王道である。

つづく

Ⅶ-15 呉服の流通に関する気になる動き(その2)

通常の商取引では、前者の「買取」が原則である。問屋は生産者から、売れるだろうと思える商品を買い取って在庫とする。生産者には代金を約定に従って(決められた期日に)支払う。これで取引が完了する。

小売店は、問屋の商品から自分の店のお客様に売れるだろう商品を買い取って在庫とする。そして来店したお客様に商品をお目にかけて買っていただく。問屋には約定に従って商品代金の支払いをする。

このような「買取」が呉服業界でも元々の原則であり、そのような取引で商品が動いていた。

私が子供の頃(昭和30年代)には月に一度か二度やって来る問屋さんが段ボールの箱をいくつも店に持ち込んで商品を広げ、祖父がそれを一つ一つ柄と価格を比べながら商品を買い取っていた。そして帰る時には、以前買った商品の代金を支払っていた。商品と引き換えに代金を支払う、と言った極当たり前の商売である。

一方、「浮き貸し」は、商品を預かり、後日売れた分だけ代金を支払う取引法である。これは、呉服業界に限らないかもしれない。

この「浮き貸し」は以前からあった。昭和30年代から40年代に掛けては、店にやってきた問屋さんが、売れ残った商品を「来月まで置いて下さい。」と言って置いて行くこともあったと言う。当時は、京都の問屋さんが、肩に担ぎあげなければならない様な段ボール箱(ボテ箱と言う)を4~5個も持って夜行列車で商売に周っていた。

当時呉服は良く売れたので、その商品は、得意先を一回りすると残りは1箱くらいになった。帰りには手ぶらで帰りたいと言う事情もあったかもしれないが、残った商品を小売店に預けて荷を軽くしていた。しかし、当時はこのように浮き貸しで置いても相当数売れることは分かっていた。もしも、次の月に多数の返品があっても、また他の店に行って置いてくれば売れるだろうと言う目算もあったのだろう。

問屋さんにしてみれば浮き貸しをしても十分に効率の良い商売ができたのだろう。しかし、それでも小売屋(私の祖父)は商品を買い取っていた。少しでも柄が良く商品を安く仕入れるためである。浮き貸しでは一般的には値引き交渉はできない。問屋が言い値で商品を置いて行く。買取の場合は、ぎりぎりの値段交渉を経て買取の価格が決まる。その為に店の在庫とする商品は柄と価格に自信がなければ購入できない。そこに商品を買い取る小売屋の責任と目利きが生じるのである。

その後、この「浮き貸し」と言う取引は時代と共に様々に形を変えてきた。

私の店では買取を原則として仕入れているが、「浮き貸し」も利用している。お客様からの注文に適する在庫がない場合、問屋に商品を送ってもらい商いをする。売れたものは仕入れとなり、売れなかったものは直ぐに送り返す。

このような取引は、現代のなせる業である。電話で注文すれば商品が翌日、あるいは翌々日には届く、と言った流通運輸の発達が背景にある。鉄道貨物が主流だった時代には商品が届くのに一週間も掛かった。場合によっては駅まで荷物を取りに行くこともあった。昔はこのような取引はできなかっただろう。便利な時代になったものである。

しかしそれでも、このような浮き貸し取引はできるだけしたくない。と言うのは、現在商品が少なくなり、問屋に頼んでも適切な商品がない場合が多い。できるだけ自分の目で見て納得してお客様に商品を提供するには、やはり買取をしなければならないと私の店では考えている。

つづく

Ⅶ-15 呉服の流通に関する気になる動き

最近、問屋との取引で気になる動きがある。全ての問屋がそうではないけれども、業界全体が悪い方向に向かっているような気がしてならない。

内容は、業界に対する警鐘として書くつもりつもりなので、消費者には分かりづらいかもしれないけれども、着物を愛する人たちに必ず悪い影響を及ぼすものなので、できれば理解していただきたい。

呉服の流通については以前事細かに書いたけれども、おさらいをしてみよう。

着物や帯などの製品は生産者(織屋・染屋)が作る。製品を消費する(着物を着る、帯を締める)のは消費者である。消費者へは小売店(呉服屋)が製品を提供する(売る)。

小売店は消費者に製品を提供するためには製品を仕入れなければならない。小売店が製品を作っている生産者から製品を仕入れられれば良いが、全国にある生産者から仕入れるのはほとんど難しい。大島紬仕入れるために鹿児島や奄美大島へ行き、博多帯を仕入れるために福岡まで足を運ぶ、と言うのは無理である。仕入れの出張費だけで莫大なものとなってしまう。

また、生産者が小売店に製品を卸すことも困難である。余程大きな生産者(メーカー)であれば、営業部門を創り小売店に製品を卸すこともできるかもしれないが、生産者は生産する製品の品種が限られているために非常に効率が悪い。小売店の要望には極一部しか応えられない。まして中小零細の生産者は創る製品も限られ、遠方の小売店と取引するのは困難である。

そこで、生産者と小売店の間に問屋が介在する。問屋は生産者から製品を買い集め、小売屋に製品を卸す。総合問屋であれば、呉服に関するほとんど全ての製品を揃えて小売屋に製品を卸すので商売としては効率が良い。生産者は創った製品を取引する問屋に売り渡すだけで良い。小売店は数件の問屋と取引すれば全国津々浦々の製品を購入できる。

実際には、産地で製品を集める産地問屋が前売り問屋(主に小売店を相手にする問屋)に製品を卸すケースもあり、商品が複雑な経路を経て小売屋に卸される場合もあるが、単純化すれば、生産者→問屋→小売屋という商品の流れになる。

而して生産者は製品の制作に専念し、問屋は製品を集め小売屋に卸す。小売屋は商品の仕入れにそれ程苦労することなく消費者に商品を売ることに専念できる、と言った効率の良い流通形態が出来上がる。長年このような流通が呉服業界でも行われてきた。

さて、商品の売買、取引には金が動く。商品代金の支払いが発生する。生産者から製品を買った問屋は生産者に代金を支払う。問屋から商品を買った小売屋は問屋に代金を支払う。当然の話である。

商品の取引には二通りある言葉以前述べた。商品を買い取って代金を支払う「買取」と商品を預かり売れた分だけ代金を支払う「委託販売」(呉服業界では「浮き貸し」と言う)である。

つづく