Ⅶ-28 これから着物とどう付き合うべきか(その5)

農家の嫁が亭主の為に機を織り仕立てる。機を織ると言っても、既成の糸がある訳ではない。糸から作ったかもしれない。糸をつむいだり、麻を割いて糸を作る。そして、それを機に掛けて生地を織り、一針一針仕立てたのだろう。そう言った一連の仕事は、夜なべ仕事で、どれだけ手間を掛けて着物が完成したのだろうか。

当時は自給自足であり、人件費と言う概念もなかった。その手間を考えれば大変な価値である。現在、結城紬や大島紬、越後上布など昔ながらに織られている織物が高価なのは十分にうなずける。

昔の農民、時代劇に登場するような虐げられた農民は、実は結城紬や大島紬のような現在で言えば高価な紬あるいはそれに準じた織物を着ていたと言える。

その着物は大切に着られ、汚れれば洗って仕立て直す、裏地を取り換えて仕立て替える等の工夫をしながら着られていた。現代の様に、数回来たら飽きてしまったとばかり放って置いたり、オークションに出すと言う事はなかった。

長い間着た着物は、子どもに譲ると言う事もあっただろう。これは現代でも行われている。私の持っている着物の八割は、父や祖父の着物であり、中には祖母の着物を仕立て替えたものもある。既に五十年以上経つものばかりである。

長い間着てボロボロになり、どうしても仕立て替えられない着物もある。しかし、その場合は、子供用に仕立て替えもしただろう。最後は、もったいない話だけれども、雑巾にでもしたかもしれない。
一枚
の着物を雑巾になるまで使う、と言うのは、いかにも貧しい昔の農民の姿の様に思える。しかし、その着物は、現代で言う高級紬(「超」が付くような)であり、それを大切に着回したと言う事である。

プリントの安い浴衣を数度着ただけで捨てたり、またオークションに出し、また新しいプリントの安い浴衣を買う。インクジェットの安っぽい着物を次々に世に送り出し消費者の購買を誘う、と言った現代の着物事情と良く比べて見たらよい。

例えて見れば、昔は高級車を大切に修理しながら何十年も乗り続けたようなものである。しかるに現代は、安い軽自動車を毎年乗り換えているようなものである。どちらがより豊かな着物生活なのだろうか。

現代の着物業界は、既に量的な拡大を求められないところに来ている。日本の着物を健全な形で後世に伝え、業界も健全に生き残るためには業界として態度を改めなくてはならない。そして、消費者に着物の本当の良さを啓蒙する事である。

業界として消費者に着物の本当の良さを紹介し、理解してもらう。さすれば自ずから伝統的な職人の居場所も後世に残される。決して高価な着物を買ってくれと言う訳ではなく、捨てても惜しくない様な着物は創らず、より長く愛着を持っていただけるような本物の着物を創り販売する事である。

消費者には量的、価格的な満足感ではなく、質的な満足感を味わっていただけるようにできない物だろうか。

プレハブの住宅に住み、スクラップアンドビルドを重ねるのではなく、しっかりとした職人が造った住宅に末永く住んでもらえるように。

江戸時代に比べて現代は、経済的には遥かに恵まれているはずなのに、着物についてはなぜプレハブ住宅に住む如く文化を享受できないのだろうか。今日の業界の姿勢が一番問われることであるが、消費者も本当の着物の文化を考えていただければと思う。

 

年末年始の為、来週は休刊致します。新年は1月6日のUPになります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です