月別アーカイブ: 2018年11月

Ⅶ-28 これから着物とどう付き合うべきか

今呉服業界では様々な変化が起こっている。それは、呉服業界に限らないのかもしれない。情報や流通が発達し、これまでなかった事が起こり、今迄の常識が通じなくなっている。そしてそれらは短いサイクルで起こっている。昨年と同じことをしていたのでは、今年は全く通じない、と言う事をしばしば経験する。

先日、小物の商社の方と話をしていた。

「最近いかがですか、ご商売の方は。」

商売上では儀礼的な挨拶である。

「いや呉服関係は全然よくありませんが、レンタルが良いんですよ。」

確かに、レンタルの着物や浴衣が伸びているという話はよく聞く。京都や浅草に行けば、いかにもレンタルと思えるような井出達の人に良く出合う。外人さんも多く、特に中国の人達に人気の様である。

その小物屋さんは小物からプレタの着物や浴衣も扱っており、レンタル用のポリエステルの既製品も多く扱っている。

「今年はレンタルに助けられました。」

もちろん綿の既成浴衣も扱っているのだけれども、今まで売れていた既成の綿浴衣は今年は散々だったという。

「昨年は売れていたんじゃないですか。」

そう聞くと、
「ええ、昨年は売れましたが今年は全然ダメでした。本当にレンタルに助けられましたよ。」

そして更に、
「浴衣が売れないと言っても、若い人たちが浴衣を着なくなったわけではないんです。」

通常、物が売れなくなるのは、その商品の需要が減少するからである。若い人たちが浴衣を着なくなれば浴衣の需要が減少し、売上は減る。しかし、今はそうではないという。

「少し前は、若い人が浴衣を捨てるという話がありました。」

その話は以前私も聞いたことがある。セットで3000円くらいの浴衣を買い、彼女と花火を見に行く。Gパンで行き、途中で浴衣に着替える。帰りはまたGパンTシャツに着替えるが、浴衣を畳むこともできず、面倒くさいのでゴミ箱に捨てて行く。花火大会の後、会場のごみ箱には浴衣が捨ててあるという話である。

昔は安い浴衣と言えども、一枚一枚手で染めたものなので、そこそこの値段もしたし、それを捨てると言う事はなかった。現代の技術革新が創った安価な浴衣のなせる業なのだろう。その小物屋さんの話には続きがあった。

「しかし、今の若い人達は浴衣を捨てるようなことはしなくなったんです。」

品行方正な若者が増えてきた、と思いきや。

「若い人は、浴衣でも着物でも次々と回すんです。」

最初、私は意味がよく分からなかった。

「いらなくなった浴衣や着物、もらった着物、小物でもなんでも、皆メルカリやオークションに出して処分するんですよ。」

もう三十年も前から古着の業界が活気づいている。しかし、当時は着物を古着に出すのは極一部の人達だった。わざわざ古着屋さんに着物を持って出向いて値踏みをしてもらって売って来る。そのような手間は万人のできるものではなかった。

しかし、今日情報産業の発達によって誰にでも簡単にできるようになった。着物や浴衣に限らず、3000円で買って、いらなくなったものは500円ででも処分できれば良い。あわよくば1000円で処分したい、という希望が簡単に手続きできて換金する事ができるようになった。

持っている浴衣が不要になれば即座に処分する。購入する方は、「どうせ一回しか着ないから」とか「安けりゃ安い方が」と言う思いで購入し、用を足せばまた処分する。そう言ったサイクルができつつあるらしい。

つづく

Ⅶ-27 着物の正しい認識(その5)

着物も同じである。現在の着物は、誰かがデザインして出来たものではない。長い日本の歴史が、合理性や装飾性、また習慣に則したものとして創り上げてきた。そしてそこには技術の進歩がその進化を助長してきた。

今日の着物は、日本の長い歴史とそれを創ってきた人々の努力の上にある。それ故に日本の着物は、世界中の人達にも、素晴らしい日本の文化として受け入れられている。

着物は、非常に合理的に出来ている。それは構造のみならず、メンテナンスやTPOにも及ぶ。
襦袢には半襟が付いている。着物には掛け衿が付いている。いずれもそれらの役割は汚れに対する工夫である。首筋に付きやすく汚れやすい処に付けた交換可能な布である。

八掛は、袷の着物の裏地で、表地の色とのハーモニーを楽しめるが、実は、表地が破れるのを防ぐ役割がある。八掛は表地よりも少しはみ出させて仕立てるので、裾が擦れた時、表地は擦れずに八掛が先に敗れる仕組みになっている。八掛が破れたら仕立て直すときに八掛をずらせば、元通りに仕立てる事ができる。

着物のパーツやTPOを始めて見る人にとっては、「何の為に?」と思われるものもあるが、それらも歴史を踏まえた理由がある。

伊達襟(重ね衿)と言うものがある。始めて見る人にとっては、お洒落の為の只の飾りに見えるかもしれない。しかし、伊達襟は、おそらく十二単までその起源は遡るだろうと私は思うけれども、暖かさの演出である。

十二単を着ていた人は御殿の奥でひっそりと暮らしていただろうけれども、庶民とはかけ離れた生活である。十二単の華やかさの幾許かを伊達襟を付け目事で演出し、暖かさを表現している。

黒留袖には、「比翼仕立て」がなされる。着物の内側に「比翼」を付ける。何故このようなビロビロとした布を付けなければならないのか、不思議に思う人もいると思う。昔は比翼を付けずに、留袖の中には「下着」と呼ばれるものを着ていた。着物の下着と言うと「襦袢」を連想される方もいるけれども、下着は襦袢とは別物である。下着は襦袢を着た上に、留袖(着物)と重ねて着る。

従って、衿や裾からは下着が重なって見える。後に下着を着るのを省略したのかどうかは分からないが、下着を着る代わりに比翼仕立てをして、あたかも下着を着ているかのように見せたものである。

このように、着物は時代を経てより合理的な形となり、また伝統を踏襲しつつも、より着易いものに改良され受け継がれている。

そういう意味で、今後着物が変化してゆく中で、築き上げた伝統と慣習を尊重していかなければならないと思う。その為には、着物はいままでどのように着られてきたのか。その着物を着る意味は何なのか等、着物を知ることにより、より良い着物の将来が開ける事と思う。

着物の正しい知識を得る事が、着物の文化をさらに良い物とするだろう。

Ⅶ-27 着物の正しい認識(その4)

日本の着物は、決して昔から変わらない訳ではなく、時代と共に変ってきた。現代の着物と飛鳥時代や奈良時代の衣装とは似ても似つかない。しかし、その変遷は時代と共に徐々に途切れなく連続的である。昨日まで着ていた衣装が、今日から日本全国で全く違う衣装になることはなく、着ている人から見れば、何の違和感もなく変わってきたのである。

着物の形式やTPOが比較的短いサイクルで(洋服に比べればずっと長いけれども)変化している。それでは、果たしてこれからの着物は、どのように変わって行くのだろう。「これから」とは言わず、今目の前で起こっている着物の変化をどう受け止めればよいのだろう。

「女性は羽織を着なくなった」「男性が結婚式で白の紋付を着る」「女性が男性の古着を着る」「葬式で一般参列者は黒紋付を着なくなり、着て行けば親族と思われる」「浴衣に比翼をしたり、帯締めをする」等々、今の着物は昔と変わってきている。これを「着物文化の乱れ」と捉える向きもある。

私は、着物が変化してゆくのに必ずしも反対する、あるいは畏怖を覚える物ではないが、現代の着物の変化は、「着物文化の乱れ」と言う要素も多分に含んでいると思う。

改めて言うが、着物は千数百年の歴史を経て今日の形となっている。日本人が長い時を掛けて、試行錯誤しながらその時代の衣装を創ってきた。

着物に限らず、人類の歴史が創り上げてきた文化は人を感動させるものである。

衣装、建築、料理、音楽等、国や民族が違えば全く違うが、それぞれの民族が長い歴史の中で育んできたものは、他の国や民族の人にも感動を与える。

京都には沢山の外国人観光客が押し寄せている。何故それ程までに京都は世界中の人々を魅了するのだろうか。京都には、金閣寺や銀閣寺、清水寺、京都御所など名刹や名所が沢山ある。しかし、京都の本当の魅力はそればかりではない。

烏丸通りや四条通、河原町通から一歩出れば、そこには町屋が並んでいる。その一角には名もない小さな社があり古い地蔵さんが立っている。そして、地蔵様には真新しい頭巾と前掛けが着せられ、お供え物が供えてある。それは京都の人達が千年以上の時を掛けて育んできた風景である。

日本の文化や歴史を知らない外国人であっても、それは直ぐに日本の風景だと認識する。日本人が積み重ねてきた文化には、日本を知らない外国人も感じ入るのである。その反対の例もしかりである。

多くの日本人が世界中を旅しているが、欧米の歴史を知らない日本人でも、キリスト教の文化を良く知らない日本人でもバチカンのセントピーター寺院の前に立てば、その壮大さと奥深さに感動する。欧米の人達が育んできた歴史を感じるのである。

料理も同じである。京都の料理は「京料理」とも呼ばれている。平安時代には、ヒジキと油揚げが最高の御馳走だったと聞いたことがある。真偽のほどは分からないが、今よりは遥かに貧しい食生活だっただろう。しかし、その後千年の間に、京料理は、地道に素材や調理法を工夫してきた。

海が遠いにも関わらず、鰊を取り入れ「ニシン蕎麦」や「鱧料理」を京料理の名物にしている。京料理の職人たちは試行錯誤を繰り返しながら、それまでの料理を土台に京都の味を創り上げてきたのである。

つづく

Ⅶ-27 着物の正しい認識(その3)

現代の女性の式服とされる黒留袖は、それ程昔からある着物ではない。年配の方の中には、「黒留袖」を「江戸褄」と言う人がいる。もともと「江戸褄」は、「黒留袖」ではなく、引きずりの柄付けの名称である。柄を高くまで配した「島原褄」に対して柄の低い着物を「江戸褄」と称した。派手な「島原褄」に対して江戸の質素な「江戸褄」と言う位置づけだろう。

黒留袖には裾にしか柄がなく、比較的低い柄なので、留袖を江戸褄と言ったのかもしれない。これは、黒留袖と江戸褄が昔から共存していたのではない事を意味している。黒留袖も日本の長い歴史から見れば、ごく最近にできた着物だと言っても良い。

「訪問着」もいつ頃できた着物なのか私は知らない。戦前には「訪問着」と言う着物はなく、似たような着物は「さんぽ着」と言われていたらしい。

「付下げ」に至っては、昔はなかった着物である。『付下げと訪問着の違い』については、「きもの講座 2 きものの格について」で詳しく書いているので、そちらをお読みいただきたいが、「付下げ」と言う言葉ができたのは昭和30年頃らしい。今でこそ、訪問着だの付下げだと言われるけれども、昔はそのような着物はなかった。

「紗袷」と言う着物があるが、一般に市場に出回ったのは昭和40年頃らしい。しかし、大正時代頃、花柳界で着られていたと言う話もある。

而して、着物の形式はわりと短期間で変遷している。現代の着物が、数百年も前から着られている訳ではないのである。

TPOについても同じことが言える。

現代の感覚で言えば、白は慶事の色、黒は弔辞の色と言う印象があるが、昔は反対だった。白装束は市に装束である。黒紋付は最高の式服であり慶事に着られた。慶事に着られる黒留袖が黒なのはその名残だと私は思っている。

戦国時代に来訪したポルトガルの宣教師が、日本と欧州の慶事・弔辞に着られる黒白の装束が正反対なのを驚いた記録がある。白が慶事となったのは、欧米の習慣の影響かもしれない。

最近、結婚式で新郎が白の紋付を着ているのを良く見かける。「新婚早々切腹でもするのだろうか。新婦がかわいそうに。」等と私は冗談を言うのだが、従来の着物の感覚とはずれてきているのは事実である。

式服と言えば戦前は、縞御召に黒羽織が女性の正装だったと聞く。今は女性の御召は正装とは見られないし、正装に羽織は着ない。我々が小学校の時代は、PTAのお母様方は、入卒式には黒の絵羽織が定番だったが、今はほとんどなくなってしまった。私が京都の問屋にいた時(昭和50年代後半)、黒の絵羽織が一山(20反位)が手を付けられずに置いてあった。丁度時代の境目だったのかもしれない。

例を挙げればキリがないのだが、着物の形状、着物の種類、TPOは時代と共に変遷してきた。それも、その変化とは、比較的短いサイクルである。まず、このことを頭に入れておいて欲しい。
さて、ここで話をやめてしまうと、着物について大きな誤解が生ずることになる。着物を本当に理解してもらうのはここから先である。

つづく