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Ⅶ-27 着物の正しい認識(その2)

「着物は日本の伝統衣装」「古来から日本人が着てきた」などと言われるけれども、現代の我々が着ている着物の歴史は、それ程古い物ではない。

日本人は2000前にはどのような衣装を身に纏っていただろうか。庶民は、貫頭衣と呼ばれる簡素な衣装を着ていた。今の着物とは似ても似つかぬ衣装である。時代と共に、衣装は合理性と共に装飾性も重視され、より複雑な衣装となる。

平安時代の十二単らしい衣装を見ると、現代の着物のルーツを見たようにも思える。しかし、幾重にも重ね着をして裾を引きずって歩く様は、着物とは似ても似つかない。

時代を下り、着物の直接のルーツと思われるのは小袖である。小袖を着た絵や博物館で衣桁に掛けられた小袖を見ると、現代の着物とそう変わらないようにも見える。

しかし、細部を見れば小袖は現代の着物とは大きく違っている。また、着方も違っていた。今のように帯の太鼓結びはなく、細帯を締めていたり、花柳界では帯を前で結んでいた。現代の着物姿で江戸時代にタイムスリップしたとしたら、江戸の街の人達に奇異の目で見られることだろう。

逆に現代から歴史を遡れば、現代の着物のルーツはどの辺にあるのだろう。

現代の女性の着物の特徴は「おはしょり」と「太鼓結び」である。
「おはしょり」の起源については、専門家に聞くしかないが、昔の「ひきずり」と関係があるのではないかと思う。当時の上流階級の女性の着物(今で言うフォーマル着)は、「ひきずり」だった。裾を前で合わせないために、柄は「島原褄」や「江戸褄」と言った、左右前身頃(今で言う上前下前)の柄が同じように描いてある。

もちろん屋内の衣装だったが、表に出ようとすれば、裾をたくし上げなければならない。京都の舞妓さんは裾をたくし上げて手で押さえながら歩く姿を見かける。手で押さえないとすれば紐で固定しなくてはならない。そういった事情で「おはしょり」ができたのだろう。

太鼓結びは江戸時代、文化・文政時代(1800年代初期)に考案されたと言われている。当時、どれだけ一般的だったのかは知らないが、次第に太鼓結びが一般的になってきた。明治に入ると一般化していたのだろう。

いずれにしても、現代の着物姿の原型は明治時代の頃で、せいぜい150年位の事のようだ。

明治以後、150年間の間にも着物は変化してきた。

名古屋帯は単衣太鼓の帯を意味しているが、元々は胴の部分を反巾に仕立てた、いわゆる名古屋仕立ての帯を意味していた。これは、大正時代に名古屋で発明されたもので、全国に広まっていった。せいぜい百年前の事である。

着物の形状は、季節により、性別により、またフォーマル、カジュアルの別に関係なく基本的には同じである。振袖は袖が長い、男性用は身八口がない等細部では違いはあるが、概ね形は同じであり、個性的な形の着物はない。

着物の形状は、昔から変わりがないように思われるが、小袖から現代の着物に変わったように、非常に長いスパンではあるが、変化している。

変化しているのは、着物の形状だけではない。着物の種類やその着方、所謂TPOも時代と共に変化している。

つづく

Ⅶ-27 着物の正しい認識

日本の着物の素晴らしさは、今更説明するまでもない。日本人ばかりではなく外国人の着物に対する関心も並々ならぬものがある。

札幌冬季オリンピックの前に開かれたグルノーブルオリンピックの閉会式で、札幌市長と共に現れた振り袖姿の女性を見ようと、選手達が一斉に列を崩して殺到したときの様子は余りにも印象的だった。

母が30年前に旅行で中国に行った際、当時は現在の中国とは違って皆人民服を着ていた当時だけれども、母の着物姿を見ようとたちまちに黒山の人だかりになったという。

今、京都や浅草を歩けば、着物や浴衣を着た外国人に遭遇する。着物を着てみたいと言う外国人は少なからずいる。

先日、着物を仕立てたお客様が、次のような事をおっしゃっていた。
「着物の魔力はすごいですね。」
その方は、最近着物を着始めたのだけれども、着物を着て行ったら、皆の見る目がまるで違ったという。他のお客様とも着物の話を良く話をするが、
「日本人は、どんなに高価な洋服を着ても、着物にはかないませんね。」
と言うのは、誰しも認めるところかと思う。

では、着物の良さとは何か。何故、着物は素晴らしいのかを深く考えてみたいと思う。

「着物は日本の伝統の衣装」「日本古来の着物」と言う見方がある。また一方で、正反対の見方もある。業者によっては、
「着物や浴衣は自由です。どんな着方をしても良いんです。」
と言って、今までの伝統からすれば、まるで外れた着物の着方を勧めている。平時に黒紋付(喪服)を着る。女性が男物の羽織を羽織る。浴衣に比翼を付ける。浴衣帯に帯締めを締める等々、今までには考えられなかった着物の着方が巷にあふれている。

着物の伝統を擁護しようとする人達、着物の伝統を無視して着物を着る人達、客観的には、どちらにも軍配を上げるわけには行かない。着物に限らず、着る物に関して法的な規制はない。何を着ようと個人の勝手だからである。

規制があるとすれば、それは社会的な目である。その人の衣装が社会的に受け入れられるのかどうかは、本人の好みで決められることではない。葬儀に赤いワンピースを着ていけば、その人は社会的な制裁を受けるのである。

さて、社会的な目とは、社会一般の常識である。社会常識が正常であれば、衣装を通したコミュニケーションもうまく行くはずである。

着物に関する社会常識を正常にするには、日本人の着物に対する認識を正しい物にしなければならない。「正しい物にする」というのは、画一的な着物を目指すのではなく、着物に対する正しい認識に立脚して、今後の着物のあり方を考えなければならないと思うのである。

そういう意味で、着物の良さは何なのか、日本人にとって着物とは何なのかを考えていただきたいのである。

つづく

Ⅶ-26 再々・・・度、着物のしきたりについて(その2)

「道」(タオ)は、哲学的にはとても難しい概念で、私が解説できる代物ではないが、私は「真実」「真理」または「人の道」と解釈している。私なりの言葉で老子の言葉を解釈すると次の様である。

「人が歩むべき真理は、『これがそうです』と言葉で言える物であれば、それは本当の人の歩むべき真理ではない。真理には名前やお題目もない。・・・・・名の無い真理をすべて受け入れようとする人には真理の本質を認識できるが、真理を我が物にして、そのお題目に与ろうとする者には真理の本質は見えず、その形骸を認識するのみである。」

「道」と言う深遠な概念は人が言葉で表現できる域を超えている。しかし、それは認識できない事ではないが、認識しようとすれば逃げて行くのである。

大変哲学的な話になってしまったが、この言葉は、着物のしきたりの本質を突いているように思われる。

日本の着物のしきたりは、千数百年の時を経て確立されたものである。時代の変遷により着物の形態は微妙に変わり、また社会体制の変化による礼儀や常識も変わってきた。しかし、時代や地域によってしきたりは一見バラバラにも見えるが、衣装に対する日本人の意識(日本人だけでなくどの民族の意識も)には真っ直ぐな筋が通っている.

そのしきたりをお題目で把握する事はとても困難、いや不可能である。

老子の言葉を再度、着物のしきたりに合わせて要約してみる。

「『これが着物のしきたりです。』と言葉で言える物があれば、それは本当の着物のしきたりではない。着物のしきたりを一覧にする事は出来ない。・・・・着物を着る時には、自分の着物の知識や持っている着物を誇ることなく、何を着ればその場に一番合うのか、その場の雰囲気を盛り上げ、他人の心を満たせられるのか、そう考えて着物を着る人には着物の本当のしきたりは見えてくる。しかし、己の知識をひけらかし他人に押し付け、『着物のしきたりはこうだ。』と断言する者は、何時まで経っても本当の着物のしきたりは見えず、着物のしきたりの形骸しか認識できない。」

きもののしきたりを知ることは、今迄積み上げてきた日本の文化、日本人の心を知る事である。日本人が何を大切に守ってきたのかを考えれば、きもののしきたりは朧気ながら見えてくるのではないだろうか。

Ⅶ-26 再々・・・度、着物のしきたりについて

着物のしきたりについては何度書いてきただろうか。読者には、「また同じ話題か」と呆れられるかもしれない。しかし、私はこの問題について何度書いても、何度言葉を替えても、未だにすっきりしない。

私の思っていることが読者に正確に伝わったのか。そして、私の知識不足が、かえって着物を着ようとする読者を混乱させているのではないかと言う思いが強くなってくる。

一つの事を説明しようとする場合、同じ方向から言葉を替えて説明しようとしても中々真実は伝わらない。例えば、茶筒の形を説明しようとした場合、「茶筒は丸い物だ」と言えば、真実を言っているが、読者に茶筒の本当の形は伝わらない。「横から見れば四角です」と言えば、少しは真実に近づけるように、着物のしきたりについてちょっと違った角度から書いてみようと思う。

中国の思想家に老子と言う人がいる。春秋戦国時代に活躍した諸子百家の一人で、荘子や列子とともに、道家と言う学派の思想家である。紀元前6世紀半ばに生まれたとされている。(はっきりとしたことは分からない。)儒家の孔子が生まれる少し前らしい。

その老子がたった一冊の書物を残している。「老子道徳経」と呼ばれる書物である。「道徳経」と言っても、お経の本でも宗教の本でもない。人の生き方を解いた哲学書である。

老子は、書物を残さず自分の思想を人に押し付ける事もなかった。世の乱れを嘆いて世を捨て、当時の中国の西の端である函谷関から西へ旅立とうとする。(一説ではローマに向かったとも言われている。)

その時、函谷関の関所の役人である尹喜と言う人物が老子に教えを書いてくれるように頼み、老子はそれに応じて「道徳経」を著した。もしも、尹喜が老子と出会わなければ、老子の哲学は今日に伝わらなかったかもしれない。

さて、「道徳経」は同じ道家の荘子が著した「荘子」と共に私の座右の書である。諸子百家と言えば、儒家の孔子の書いた「論語」が有名で、広く一般に知られ受け入れられているが、老子の思想は、現代人が忘れた、そして現代人には必要な思想である。

一般に、儒家と道家の思想は相反し、相容れないように語られることがあるが、決してそうではない。「論語」と「道徳経」には似たような教えもある。その「道徳経」に着物のしきたりを説くのに相応しい行がある。道徳経、第一章の冒頭の行である。

道可道、非常道、名可名、非常名、・・・・・故常無欲、
以観其妙、常有欲、以観其徼・・・・・

(道の道(い)う可きは、常の道に非ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。・・・
故(まこと)に「常に欲なきもの、以て其の妙を観(み)、常に欲有るもの、以て
其の徼を観る。・・・・)

これを現代語訳にすれば、

「「道」が語りうるものであれば、それは不変の道ではない。「名」が名づけうるも
のであれば、それは不変の「名」ではない。・・・・まことに「永久に欲望から解
放されているもののみが『妙』(かくされた本質)を見る事ができ、決して欲望か
ら解放されない物は『徼』(その結果)だけしか見る事ができない」のだ。」

となるが、これでもまだよく分からない。

つづく