Ⅶ-19 伝統・しきたりは守られるべきか(その2)

実は先頃私に初孫が誕生した。孫はかわいいものである。若い時には、「孫の為には何でもしてあげたい。」と言っている年配の方を見ると「何とも婆バカな。」と思っていたが、私も「爺バカ」であった。

私が孫に何をしてやれるのかと言えば、職業柄宮参りの掛け着の用意である。日本の伝統的しきたりとして、生まれた子を連れて神社に詣でる。その際、抱いた子供に着せ掛けるのが「掛け着」あるいは「一つ身」「祝着」とも言う。着物と言っても生まれたての赤ちゃんに着物を着せる訳ではない。赤ちゃんを抱いた上から掛ける着物である。

さて、誰が赤ちゃんを抱くのかと言えば、伝統的なしきたりでは父方の母親が抱いて宮参りする事になっている。赤ちゃんを産んだ当の本人である母親は手ぶらで参ることになる。こういったしきたりが長年続けられてきた。

ところが、知人の話によると、息子の子供を宮参りで写真館に行ったところ、息子の嫁が子供を抱いて祝着を掛けて写真を撮った。写真館の人の指示に従ったところ母親は幕の外で、嫁が抱いて当然と言う風だったと言う。伝統には全く目もくれずに親子三人の写真となった。

赤ちゃんは、嫁が抱くのか母親が抱くのか。これもまた、「伝統・しきたりは守られるべきか」の論点となりそうである。

生まれた子供を宮参りさせるときは子供の母親が抱いて行く、と言うのは理にかなっているし、当たり前に考えれば当然のようにも思える。それでは何故父方の母親が抱いて祝着を掛けるのか。それには、それ相応の理由がある。

様々な理由があるらしいが、良く言われるのは、「出産後の女性は不浄なので、神社に詣でてお祓いをしてもらうまでは子供を抱っこさせない。」と言うものである。不浄と言うのは、昔は血を流すこと、血を出すことが不浄と考えられ、出産に際して血を流した母親の体には穢れがあると考えられていた。

出産した女性は不浄なのか、と言えばその科学的根拠もないし、議論しても始まらない事であろう。「昔の人はそう考えた。」としか言えないだろう。そう聞けば、反伝統派の人達は、「それなら意味がない。」といきり立つように思える。

しかし、伝統やしきたりには意外と合理的な意味が含まれていることが多い。お茶の作法や食事の作法等、昔から伝えられた伝統やしきたりは理に適っているようにも思える。

食事の時の茶碗とお椀はどちらが右でどちらが左か。日本の食事では茶碗やお椀を手に持って食べる事になっている。茶碗やお椀を持つのは左手である。茶碗とお椀のどちらを手に持つ頻度が高いのかを考えれば自ずと答えが出てくる。

また、何故茶碗やお椀を手に持たなければならないのか。最近はテーブル席が多いために茶碗を持たずに食べる人も見かけられる。しかし、御膳に座って見ればよく分かる。御膳では茶碗と口の位置が離れているために茶碗を持って口に近づけるのが理にかなっている。

お茶の作法もしかりである。お点前で建水を後ろに下げる仕草がある。何故建水を後ろに下げなければならないのか。洋服でお茶を習っている人はつい飛ばしてしまうらしいが、着物を着てお点前をすればその意味がよく分かる。建水を下げなければ袖を濡らしてしまういとった事がある。お茶の作法は傍から見ると面倒くさそうに思えるが、実は合理的に組み立てられているらしい。

さて、それでは宮参りで父方の母親が子供を抱くのはどのような合理性が伴っているのだろうか。

つづく

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