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Ⅶ-19 伝統・しきたりは守られるべきか(その3)

よく言われているのは、「産後間もない母親の体を気遣って」と言うものである。私は子供を産んだことはないので分からないけれども、産後間もない母親は子供を抱いて宮参りするのは体に堪えるのかもしれない。と言うよりも、御姑に抱いてもらえば身体が休まる、と言う事だろう。

他にも合理的理由があるのかと考えれば、家族の絆という意味もあるかもしれない。昔の日本は今と違い大家族、家父長制であった。生まれた子供がその家の祖母に抱かれて宮参りする事は、一家の一員として認められる第一歩だったのだろう。

大家族や家父長制については現代では違和感があるかもしれない。私も家父長制については封建的な臭いがして少なからず批判的である。

伝統やしきたりは、時代の事情を背景として築かれてきたものなので、時代が大きく変わると、その時代にそぐわなく成ることは十分に考えられるが、合理性を含んでいることもまた事実である。
相撲の話に戻れば、現代の論点は「男女差別」にある。「男性に許されることが何故女性には許されないのか」と言う男女平等の根本問題である。土俵に女性を上げないと言うしきたりに合理性はないのだろうか。

「女人禁制」と言えば高野山が思い浮かぶ。現在は、和歌山県伊都郡高野町と言う都市として男女共に住まう街だけれども、昔女性は入山が許されなかった。私は高野町には仕事で数十回訪れたことがあるが、今は寺の多い普通の門前町だった。

高野山が女人禁制だった理由は男女差別によるものだろうか。私は極合理的な意味があったと思う。高野山金剛峰寺は弘法大師空海が修禅の道場として開いたものである。当時修行をするのは男性であった。女性は男性にとってはとてつもなく魅力のある存在である。男性の修行の場に女性がいては修行に専念できない、と言う理由から女人禁制となったのだろう。

一方、女性の修行の場として尼寺がある。尼寺は女性僧(尼、比丘尼)が修行する処で男性はいない。同じように西洋でも修道院は男子修道院と女子修道院に分かれている。どちらも修行の場に異性が居ては修行に身が入らないと言う事だろう。

宗教の場、修行の場では異性を区別すると言う合理性が働いている。では、相撲の場はどうか。
相撲は神事と言われるが、同時に勝負の場でもある。とりあえず相撲は男性の競技である。男性の真剣勝負の場に女性が居ては気が散ってしまうと言う事だろうか。昔、レーシングサーキットに女性を入れないところがあったと聞く。やはり事故と隣り合わせのレーサーにとって魅力ある女性は影響を与えかねないのだろう。

伝統やしきたりには、少なからず合理性が潜んでいる。しかし、それが現代の世の中で通用するかどうかはまた別問題である。

先の尼寺の例では、どこかの尼寺では尼僧になる人が少なく、男性の僧侶が住職になったそうである。

では、この問題(伝統やしきたりは守るべきか否か)はどのように考えればよいのだろうか。

つづく

Ⅶ-19 伝統・しきたりは守られるべきか(その2)

実は先頃私に初孫が誕生した。孫はかわいいものである。若い時には、「孫の為には何でもしてあげたい。」と言っている年配の方を見ると「何とも婆バカな。」と思っていたが、私も「爺バカ」であった。

私が孫に何をしてやれるのかと言えば、職業柄宮参りの掛け着の用意である。日本の伝統的しきたりとして、生まれた子を連れて神社に詣でる。その際、抱いた子供に着せ掛けるのが「掛け着」あるいは「一つ身」「祝着」とも言う。着物と言っても生まれたての赤ちゃんに着物を着せる訳ではない。赤ちゃんを抱いた上から掛ける着物である。

さて、誰が赤ちゃんを抱くのかと言えば、伝統的なしきたりでは父方の母親が抱いて宮参りする事になっている。赤ちゃんを産んだ当の本人である母親は手ぶらで参ることになる。こういったしきたりが長年続けられてきた。

ところが、知人の話によると、息子の子供を宮参りで写真館に行ったところ、息子の嫁が子供を抱いて祝着を掛けて写真を撮った。写真館の人の指示に従ったところ母親は幕の外で、嫁が抱いて当然と言う風だったと言う。伝統には全く目もくれずに親子三人の写真となった。

赤ちゃんは、嫁が抱くのか母親が抱くのか。これもまた、「伝統・しきたりは守られるべきか」の論点となりそうである。

生まれた子供を宮参りさせるときは子供の母親が抱いて行く、と言うのは理にかなっているし、当たり前に考えれば当然のようにも思える。それでは何故父方の母親が抱いて祝着を掛けるのか。それには、それ相応の理由がある。

様々な理由があるらしいが、良く言われるのは、「出産後の女性は不浄なので、神社に詣でてお祓いをしてもらうまでは子供を抱っこさせない。」と言うものである。不浄と言うのは、昔は血を流すこと、血を出すことが不浄と考えられ、出産に際して血を流した母親の体には穢れがあると考えられていた。

出産した女性は不浄なのか、と言えばその科学的根拠もないし、議論しても始まらない事であろう。「昔の人はそう考えた。」としか言えないだろう。そう聞けば、反伝統派の人達は、「それなら意味がない。」といきり立つように思える。

しかし、伝統やしきたりには意外と合理的な意味が含まれていることが多い。お茶の作法や食事の作法等、昔から伝えられた伝統やしきたりは理に適っているようにも思える。

食事の時の茶碗とお椀はどちらが右でどちらが左か。日本の食事では茶碗やお椀を手に持って食べる事になっている。茶碗やお椀を持つのは左手である。茶碗とお椀のどちらを手に持つ頻度が高いのかを考えれば自ずと答えが出てくる。

また、何故茶碗やお椀を手に持たなければならないのか。最近はテーブル席が多いために茶碗を持たずに食べる人も見かけられる。しかし、御膳に座って見ればよく分かる。御膳では茶碗と口の位置が離れているために茶碗を持って口に近づけるのが理にかなっている。

お茶の作法もしかりである。お点前で建水を後ろに下げる仕草がある。何故建水を後ろに下げなければならないのか。洋服でお茶を習っている人はつい飛ばしてしまうらしいが、着物を着てお点前をすればその意味がよく分かる。建水を下げなければ袖を濡らしてしまういとった事がある。お茶の作法は傍から見ると面倒くさそうに思えるが、実は合理的に組み立てられているらしい。

さて、それでは宮参りで父方の母親が子供を抱くのはどのような合理性が伴っているのだろうか。

つづく

Ⅶ-19 伝統・しきたりは守られるべきか

着物についての伝統やしきたりについては以前から触れてきた。しかし実は私はこの「伝統・しきたりは守られるべきか」と言う議論には巻き込まれたくないと思っている。決して責任を逃れたりノンポリを決め込むつもりはないのだけれども、この議論は果てしなく勝敗は決してつかないからである。

この議論が始まれば、「伝統は守られるべき」と言う肯定派と「伝統は時代と共に変わる」「昔の悪弊を引きずる必要はない」と言うような否定派が喧々諤々の論争を交わすことになる。しかし、どちらかが相手を論破して納得させると言うのはまず起こり得ない。どちらも自説を唱えるのみで、妥協点を見いだせる物でもない。結局、何の結論も見いだせずに、場合によっては敵愾心のみが醸成されてしまうのである。

着物に限らず伝統やしきたりを現代の世の中ではどう見たらよいのか、実に大切な問題ではあるけれども、巷ではそれぞれがそれぞれの解釈でコンセンサスは見出されていない。

今回、紙面をもってこの難問を考えて見ようと思うが、これは議論ではなく私の個人的な見解を一方的に書くものである。どのような批判が浴びせられるか分からないが、一方通行の一撃離脱ブログである。

この表題が思いついたのは、ニュースを賑わせた角界のさる事件だった。

ご存知のように、土俵で倒れた男性に心臓マッサージを施そうと女性が土俵に上がった際、「女性は土俵から降りてください」のアナウンスが流れた。詳細は書かずとも事の次第はご存知の事と思う。

「土俵に女性は登れない」と言う伝統と、「命を救おうと土俵に登った女性」の間に齟齬が生じニュースを賑わすこととなった。

結果から言えば、一刻を争う救命に立ち上がった勇気ある女性(看護師?)に対して「土俵に登るな」は的を得ていない、と言うのは衆目の一致する処だと思う。インターネットやSNSでも「女性は土俵から・・・。」への批判が多かった。批判の声が渦巻く中、八角理事長は謝罪の声明を出した。当然の対応だったが、あるいは「女性は土俵から・・・。」と咄嗟にアナウンスした本人も「まずい事を言ってしまった。」と思っているのではないだろうか。

しかし、問題はこれに留まらなかった。その後も女性の土俵への登壇の是非が問題視され、土俵の下で挨拶をした宝塚市長は登壇できない事への不満を挨拶の中でしたと言う。本人は「伝統は撤廃すべき派」なのだろう。もちろんその主張には一理も二理もある。相撲協会の不手際に乗じて一気に伝統の撤廃を主張する良い機会と捉えたのかもしれない。

私は再度申し上げるが、このよう議論には関わりたくない。宝塚市長の言を受けて相撲協会が白旗を掲げて伝統を完全に撤廃する事はないだろうし、もしもそうした場合、また多くの不満が反対派から噴出するだろう。決して決着は付かない問題だと思う。

さて、相撲の話になってしまったが、着物の世界では相撲の世界以上に伝統やしきたりが論ぜられる。両派の議論に関わりたくないと言って耳を塞いでただ黙っている訳には職業柄いかない。この問題はどのように捉えれば良いのだろう。

つづく

Ⅶ-18 着物との本当の付き合い方とは・続編(その2)

ご主人の好みも聞きながら、
「これは仕立て替え。」「これは丸洗いして裄を出す。」「これは丸洗いだけ。」
と分けて行った。

結局、二着を仕立て替え、アンサンブル二着を含む六着は丸洗いして裄を出すこととなった。
「全部加工するのに、ちょっと時間を頂きますが、単衣と夏物はできるだけ早くします。」
そう言って加工する着物を風呂敷に包んだ。

「どうぞ、お茶を御一服。」
と言う奥さんの声に、茶の間でお茶を頂いた。

御主人は奥さんに一言。
「いやー、お宝があるかと期待したけど、やはり無かったよ。」
御主人も、何かお宝があればと内心期待していたようだった。しかし、着物は皆大切に保管され、加工すれば十分に着られるものだった。御主人にとっては、着られないお宝よりもずっと値打ちのあるお宝だったと思う。

丸洗いして裄を出しても加工代は一着当たり二万円足らずである。それで六着の着物が着られるようになったのである。本来着物はこのように着継がれるべきものである。

巷の呉服屋で聞かれる「着物は長く着られますから。子や孫、末代まで着られますよ。」と言う売り口上は全くその通りである。しかし、全国の呉服屋さんはそれを実践しているだろうか。最近の展示会商法や訪問販売を見ていると疑問を抱かざるを得ない。

呉服屋に限らず商売はお客様の立場に立ち、プロとしてどんな商品、サービスをお客様に勧めたらよいのかを考えなければならない。商売を長く続けようと思うのならば、お客様の信頼は欠かせない。

お客様の好みに懐具合も考え併せ適切な商品を進める。加工するのであれば、どのような加工ができるのか、そして安くできる加工法も合わせて考えお客様に提示する。そう言った事が今の呉服屋には欠けている様に思える。

呉服屋に、仕立替えや加工を頼みに行くと、「できません。」「加工するなら新しく作った方が安いですよ。」の一言で追い返される話も聞こえてくる。「着物は孫末代・・・。」の売り口上は何だったのかと思う。

親や知人から譲られた着物を大切に着る事を今一度考えて見てはいかがだろうか。

近くの呉服屋、行き付けの呉服屋に持ち込んで着物にもう一度命を吹き込んで欲しい。本当の呉服屋であれば、喜んで相談に乗ってくれるはずである。乗ってくれないのであれば、それは唯の呉服を売るだけの業者である。

消費者の熱心な思いがあれば、呉服業界も変われるものと思う。