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Ⅶ-ⅺ 再度、着物の価値について(その3)

一口に「着物の価値」を判断するのは難しい。難しいというよりも価値を判断しようとするところに無理がある。

以前、友人から着物を譲ってもらうのに、どの着物が一番価値があるのかを相談されたことがあった。その価値の判断材料は「作家名」「買った価格」「落款の有無」などである。

確かに高名な作家の作品は、名もない作家の作品よりも価値があると判断されるかもしれない。価格の高い着物は安い着物よりも価値があると判断されるかもしれない。しかし、着物は金や株のような相場はない。客観的な価値は決められないのが着物だと思った方が良い。

着物を選ぶ動機は何だろうか。それはズバリ、その着物を着てみたいかどうか、それだけである。そして、その着物の価格が自分の財布にふさわしいのかどうかが決断させてくれる。どんなに着てみたい着物でも財布にふさわしくないのであれば買うのを諦めるだろうし、自分の財布の許容範囲であっても着たくない着物であれば買うことはないだろうから。

自分が好きな洋服を買う時、後々転売することを考えるだろうか。有名ブランドの洋服だからと言って価値の増加を期待するだろうか。着物は洋服と同じように投機の対象には成りえないし、資産としての期待は相応しくない。

洋服と違うのは、着物は洋服に比べて高い(と言われている)ことである。高い買い物をする時は誰しも慎重になる。家を建てる時には自分が最も住みやすい家を選ぶのと同じように着物も選ぶ時には自分が好きで似合う着物を選ぶ。ただそれだけである。

しかし、着物を選ぶ時には悪魔のささやきが判断を狂わしてしまうのだろう。
「これは〇〇と言う作家物です。」
「この着物には落款が押してあります。」
「本当は〇〇円なのですが、お客様には××円で提供させていただきます。」
「少々高いですが、ローンを使えば月々〇円でお求めいただけます。」
他にも口にするのもばからしいような悪魔のささやきが消費者の正常な判断を狂わせてしまっているらしい。

今回持ち込まれた着物を購入された方が、本当にその着物が好きで購入されたのであれば私は何も言う事はない。

着物の価値とは、その着物を着る人にしか分からない。その事を理解して着物を選んでいただきたいと思う。

Ⅶ-ⅺ 再度、着物の価値について(その2)

訪問着の畳紙に値札が入っていた、印字された数字は「1,000,000円」。おそらく高額の商品を買った証として買った人が大切にとっておいたのだろう。そして更に値札の裏には赤で「700,000円」の印字があった。

私も呉服屋の端くれである。着物の値段とは30年以上向き合っているし、算盤をはじきながら仕入れもしてきている。目の前にある着物を仕入れようとしたらいくら位かは大体分かるつもりである。私の頭の中では、どう算盤を弾こうとも1,000,000円の数字は出てこない。

札を見れば、その着物を打った人の次のような売り口上が聞こえてくる。
「奥さん、これは1,000,000円の作家物ですが、今回は700,000円で買えますよ。」
着物の持ち主がいくらで購入したかは分からない。しかし、私の目にはとても700,000円の着物には見えない。

さて、弁護士の奥さんから私が要求されているのは、この着物の「価値」を判断することである。私は何と答えて良いか分からなかった。「着物の価値」とは何を意味するのだろうか。

「価値」と言うのは、どんな商品であれサービスであれ、その立場によって変わる物である。着物の価格の形成はとても複雑であることは既に述べた。

私の立場で着物を見れば、「いくらで仕入れる価値があるのか」「いくらで売る価値があるのか」が直感的に頭の中に浮かぶ。仕入れに行って欲しい商品を目にしたときは、直ぐにいくらで仕入れればよいのかが頭に浮かぶ。それは売る価格を考えての事である。どんなにすばらしい商品でも価格的に売れるあてのない商品は仕入れられない。

呉服屋にとって単純に「価値」と言えば、「いくらで売れる商品価値」というのが直感である。

しかし、目の前にある着物をその尺度に照らしても、私の頭の中で算盤玉は一向に動いてくれない。すなわち私にとってその着物は「仕入れたくない着物」であって、言わば「価値のない着物」なのである。もしも「ただで差し上げますので店頭に並べてください」と言われたとしても私は引き取らないだろう。

しかし、私に今求められているのは、私の主観的な価値ではなく客観的な価値である。おそらく法的な「価値」の鑑定を依頼されている。

では、法的な価値とは何を意味するのだろう。考えられるのは、①製造原価(染屋の出し値)、②問屋の卸値、③小売屋の売値(その着物の持ち主が買った値段)などが考えられるが、それらはどんな意味を持つのだろうか。その価格を調べたとしてもそれを皆が価値として認めるのだろうか。ましてその着物は仕立て上がっている。引き取っても仕立て替えなければならない人にとってはまた価値は変わってくるだろう。

金の価値は相場により左右される。しかし、相場の価格であればいつでも売買が成立するがゆえに金の価値は常に明確である。しかし、着物の場合は主観に左右される要素が大きい。

法的な価値と言えば「今処分すれば確実にいくらになるのか」と言う事に尽きるように思える。では、「その着物がいくらで転売できるのか」、それは私には応えられない。「100円です」と私が鑑定したとしても、私に100円で引き取りを要求されても私は引き取らない。

かと言って、「0円です」と答えたとしても、100円で引き取る人が出てこないとも限らない。無理に鑑定しても、私は私の鑑定に責任は持てないのである。

結局、着物に関するその辺の事情をよく説明したうえで価値をお応えすることなく引き取ってもらった。

後日談ではあるが、結局その着物は古物を扱う人に鑑定してもらい「価値は0」と言う事で決着したらしい。

つづく

Ⅶ-ⅺ 再度、着物の価値について

先日、改めて「着物の価値とは何なのか」と考えさせられる事件?があった。

知り合いの弁護士の奥さんから電話を頂戴した。内容は「訳があって二十枚ほど着物があるので見てもらいたい」との事だった。

こういった類の電話はお客様から良く頂戴する。母親や叔母さん、または知人に着物をたくさんもらいその利用法に関する相談である。寸法はどうなのか。直そうと思えば自分の寸法に直せるのか。また、仕立て替えする価値のある物なのかどうか。解いて羽織やその他の用途に仕立て替えられるのかどうか等など。

私の店ではそう言った相談には喜んでお応えすることにしている。着物の本当の良さを知っていただくには、そう言った着物本来の使い方を知っていただきたいからである。

先日も他のお客様が数枚の着物を持ち込んできた。その中に素晴らしい辻が花の紬の小紋があった。
「これは素晴らしいですよ。是非仕立て返してとって置かれたほうが良いです。」
そうアドバイスすると、
「えっ、そうなんですか。名古屋帯にでもしてもらおうと思ってきたのですが。」
とおっしゃっていたが、結局着物に仕立てて先日その着物を着て来店された。
「みんなに褒められました。」
そういう言葉を聞くと、私は呉服屋冥利に尽きるのである。

さて、その弁護士の奥様もその類の相談だと思った。そして、いつでもお出で下さいとお応えすると、今すぐに持ってくるという返事だった。

果たして三十分もしないうちに事務所の女性と二人で二十枚程の着物を持って来店された。目の前に山積みにされた着物は皆同じ呉服屋の畳紙に入っている。ただし二~三枚はクリーニング店の畳紙であった。
「これだけの着物一枚一枚寸法を測りながら見るには時間が掛かるな。」
と思っていると、
「この着物の価値を鑑定してもらいたいのです。」
と言うことだった。

その言葉の真意は別として、私は古い着物や仕立て上がった着物を見るのが好きである。昔の着物の中には、今ではできないような染織にお目に掛かることもある。最近の着物であっても私の店では仕入れていないような着物もある。そういう意味で、山と積まれた着物の畳紙を開いてみた。

最初の畳紙を開くと、そこには驚くような着物があった。「驚く」と言うのは、私の店では到底扱わないきものだった。一緒に見ていた母と従業員は「うわー」と言う声を揚げていた。

他の二枚の畳紙も開けてみたが同じだった。「このような着物が流通しているのか」と思い、他の畳紙を開けようとしたが、母が「もう見なくてもいいから」と見るのをやめてしまった。

その着物が私の店では扱わない商品であっても、それを売ったお店ではその店のお勧めの着物として扱っているのであって私が云々する事ではない。購入した人も、その着物が好きで買ったのであれば何も問題はないはずである。しかし、更に驚くことがあった。

つづく