月別アーカイブ: 2016年10月

Ⅴ-ⅳ 常識は変わる?

きものの常識と言われていることの中には、時代と共に変わったことも多々ある。「江戸時代比べて云々」はもちろんあるが、そう昔でなくても常識は変わってきているかもしれない。

私がこの業界に入った頃、「羽織は着ない」という言葉をよく聞いた。お客様に羽織を勧めると、「最近は羽織は着ないんでしょ。」と言う言葉が返ってきた。私は幼いころから呉服屋の現場をなんとなくではあるが見知っていた。私が幼い頃、祖父や祖母がお客様に盛んに羽織を勧める姿が脳裏に焼き付いていた。小紋を選んだお客様には、「羽織はどれにいたしますか。」と言う風に、いわば着物と帯を合わせるように羽織を合わせて勧めていた。

そんな私が「羽織は着ない。」という言葉を聞くと、「いったい何時からそういった事になったのだろう」「本当に羽織を着てはいけないのだろうか」といった疑問が湧いてきていた。

間違いなく言えることは、私が幼い頃は、羽織は確かに盛んに着られていた。そして、私が業界に入った頃(35年前)には、羽織は着なくなっていた。しかし、その頃まだ羽織やコートにする羽尺と言う反物も流通していた。

羽織はいつの間にか着なくなってしまったのである。そしてそれが「羽織は着ない」と言う常識と受け取られるようになった。

しかし、今日羽織を仕立てる人が増えてきた。やや長めのコートの代わりに着るような長羽織である。若い人を中心に、ややレトロ調の長羽織である。

さて、昔着られていた羽織は何故着なくなったのだろう。原因は、私か業界から離れていた時代(子供の時と業界に就職した間隙)の事なので良くは分からない。しかし、推測するに、着物を着る人が少なくなり、相対的に着物を着る人の中でお茶をやっている人の割合が多くなった。茶席では羽織を着ない。お茶会に出るときは羽織は必要ない。したがって「羽織は着ない」(羽織はいらない)となったようにも思える。きもの人口の減少が羽織を葬り去ったと言えるのかもしれない。

一方、最近羽織を仕立てる人が増えたのは何故か。これも原因ははっきりとは分からないが、若い人たちの間でささやかながら着物ブームも起きている。しかし残念ながら業界ではそれをまともに受ける度量がなく、着物を着たいと思っている若者は古着屋へ向かった。古着屋には古い着物がたくさんある。若者の目は着物を着たいという関心と共にレトロへの魅力に向かった。

古着を着る若者の中には好んでレトロな着物を着る人が少なくない。着物を生業とする人間の目には「ちょっと寸法が・・・。」とか、「それは男の着物だけど女性が・・・。」と思えることが多々あるけれども、若者はものともせずに着こなしている。そのレトロの好みに羽織はぴったりだったのだろう。

羽織は再び復権する兆しを見せている。さて、この流行の変遷は常識の変遷なのだろうか。常識とはいつまでも変わらないものではないのだろうか。

つづく

 

ⅴ-ⅲ 良いきものの証(その14)

⑧ 良いきものを選ぶには

「良いきものの証」と題して、きものを選ぶ際の指標になるであろうことについて書いてきた。価格、箱入れ、作家物、生地、証紙等々。いずれもきものを購入する場合に指標となるもので、それに頼ってきものを選んだり、小売屋さんにそのきものの価値を示すものとして説明されたりするかもしれない。

それぞれの文章を読んで「それらは当てにならない。」「それらは無視した方が良い。」と思われた方もいるかもしれない。

しかし、いずれもれっきとしたきものの価値を表す指標であることは間違いない。問題は、それらの正しい意味、正しい知識を持って評価できるか否かである。「きものの価格は、その相場はどのくらいなのか。」「その作家はどのくらい認められている作家なのか。」「証紙の意味するところは何なのか。何を保証している証紙なのか。」それらの正しい知識を持って評価しなければかえって誤った判断を下してしまう場合もある。

そして、そこには落とし穴もあることを忘れてはならない。きものに対する消費者の浅識に付け込んで、売り口上としてありもしない価値を喧伝する材料に取り上げられることもしばしばである。

良いきものを選ぶには、きものに対する知識を深めることは言うまでもない。しかし、実際に消費者が必要な知識を身に着けるのはほとんど至難の業である。我々業界の人間は毎日きものと向き合いきものの知識を吸収している。消費者が求めるような知識についてはまずまず身に着けているつもりだが、それでもまだまだ知らないことだらけである。

まじめな小売店であれば、消費者の疑問には答えられるだろう。もしも、きものを買う際の売り口上に疑問があれば、とことん質問してみればよい。「作家物」を売りに勧められたら、「その作家はどういう作家なのか。」。証紙を盾に勧められたら「その証紙は何を保証するものなのか」「どういう機関で認定しているものなのか」十分に納得できるまで聞くことが大切である。

それと同時に信用ある小売店で買うことである。きものについて正しく教えてくれる小売店、価格についても十分に説明できるような店、そして信頼できる店である。

きものを買う価値は、きものそのものにある。値引き、サービス、接待、招待、過度な勧誘等は雑音でしかない。時には雑音が真の価値を曇らせてしまうこともある。あらゆる雑音を消し去ってきものと向き合うことが大切である。できれば雑音のない小売店できものと向き合いことである。

きものに限らず物を買うのには自己責任が伴う。詐欺や不良品は論外だが、自分が判断して商品を買う場合、買った商品には自分で責任を取らなければならない。その意味で、きものを買う場合はあらゆる観点から検討したうえで、最終的に価格と商品を比べて、「その価格で買うことが自分にとって価値があるかどうか。」の判断が必要と思う。

ⅴ-ⅲ 良いきものの証(その13)

紛らわしいラベルと言えば、紬全体に言える。

全国に名が知られた紬はたくさんある。多くはその産地名を冠している。結城紬、大島紬、塩沢紬、琉球絣、久米島紬等々。紬は元々全国どこででも織られていたのだろう。主婦が自家用としてその地域地域で手に入る糸を使い生地を織り使用していただろう。それが次第に淘汰されて残ったものが今日まで織り続けられている紬である。織り続けられ全国に名を馳せるには良い品であると同時に特徴のある紬である。結城紬、大島紬、塩沢紬などそれぞれ特徴を持った紬である。

少なくなったとは言え、今でも紬はそちらこちらで織られている。今はほとんど見かけなくなってしまったが、三十年くらい前までは西陣でも紬は織られていた。他に紬の産地と言えば、十日町を中心とした新潟、山形の米沢ではまだ相当数の紬が織られている。その他の地域の紬も含めてラベルには、「結城紬」「大島紬」の名を冠しているものがある。

正確に言えば「〇〇結城」「〇〇大島」と言ったように枕詞があり、本場結城紬や本場大島紬とは全く違うラベルが貼ってある。

結城や大島の名を冠しているとはいえ、メーカーでは消費者をだまそうという悪意はないのは明らかである。似たようなラベルを使うのであれば悪意も読み取れるけれども、全く違ったラベルを使い、意図するのは「結城紬風の」「大島紬と似た組織の」という意味で商品に名前を拝借しているのである。

我々業界の人間が「〇〇結城」「〇〇大島」というラベルを見ると、「ははぁ、なるほど。」と、その意味を良く理解するのだけれども、消費者の中には勘違いする人も多い。

店頭に「越後結城」を飾っておくと、「結城紬ですね。」と感心して見ていくお客様もいる。本場結城紬と勘違いしているようなので、「これは新潟で織られた・・・・。」と説明し、値札を見せると、「そんなに安いのですか。」と驚いている。越後結城は本場結城と違い、縦横に手紬糸を使っているわけではないので価格は相当に違う。

ラベルは本場結城とは全く違うし価格も全然違う。お客様に丁寧に説明すれば良くわかっていただけるのだが、何の悪意もないラベルが消費者の判断を誤らせないのかと心配にもなる。まして悪意を持って説明された場合、消費者にとってとんでもないことになる。

ラベルは証紙とは違うけれども、メーカー、販売業者共に消費者に対しては細心の注意が必要である。それと共に、消費者はラベルや証紙の意味を短絡的に理解せずにその意味するところを良く理解する事が必要である。

もっとも、責任は消費者ではなく販売業者にあることは論を待たないけれども。

ⅴ-ⅲ 良いきものの証(その12)

私も還暦を迎えて少々ボケてきたかもしれない。このブログの構想はいつも寝ながら考えている。次は何を書こうかと寝るときに布団の中で考え、翌朝目が覚めると起き上がるまでに再度内容を吟味している。日中店でそれらを文章にまとめているのだが、最近構想の段階で「あれを書こう、これを書こう」と思ったことが抜けてしまうようになった。

私は小説家でも文筆家でもないので、それほど時間を掛けて書いているわけではないのでしょうがないとも思うけれども、やはり自分の考えはなるべく詳しく伝えたいと思う。

さて、「証紙」に関して書き漏らしたことは紬の証紙についてである。西陣や博多の帯の証紙に気を取られて、うっかり紬の証紙について書き漏らしてしまった。

紬の反物には、端に証紙や紬の名前が書いてある紙(ラベル)が貼ってある。「本場結城紬」「大島紬」「黄八丈」等々。貼ってある紙が全て証紙ではない。証紙と言えるものは、特定の機関が認定したもので、広く知られているし、分からなければ少し調べてみればすぐにわかる。本場結城の証紙、大島紬では鹿児島産は旗印、大島産は地球印というのは有名である。

それらは厳密な検査を受けた物のみに添付が許され、「合格」の検印や検査済みのパンチングの穴が開けられているものもある。

それぞれの証紙の意味についてはここで省くが、証紙とともに貼ってあるラベルがある。それらのラベルも証紙と対になって貼ってある。すなわち証紙と共に貼られるラベルは証紙を許された反物のみに貼られている。そういう意味では証紙と同じ意味があるかもしれない。そして、それらのラベルは証紙よりもより具体的で目立つものが多い。

本場結城紬では証紙の他に機を織る娘が描かれたラベルが貼られている。長年見ていると、そのラベルを見ただけで「結城紬」を連想してしまう。しかし、そのラベルと似たようなラベルが多く創られている。

結城地方ではその近隣地区も含めて数多くの紬が作られている。その中で「本場結城」の名を冠して証紙が貼られるのはごく一部である。本場結城は、いざり機で織られるが、他の紬は高機と呼ばれる織機でおられる。そして、それらの紬も「結城紬」のラベルが貼られている。よく見れば本場結城とは違うがよく似ている。

産地でそのようなラベルを創るのは、決して悪意からではないと思う。同じ結城地方の紬としてイメージを共有するためのものだろう。しかし、問題はそれを受け取る側またはそのラベルを説明する側にある。消費者が誤って判断しないことに越したことはないが、それを説明する側に問題が生じる恐れがある。

「結城紬は高価ですばらしい。」と思っている消費者に「これは結城紬です。」と説明したらどう受け取るだろうか。本場結城紬と高機の結城紬、石毛結城との違いをはっきりと説明することなく「結城紬です。」と説明したら消費者は誤った解釈をする可能性は大きい。

説明不足だけであればまだ良いが、悪意をもって「結城紬です。」と販売員が切り出せば、大変なことになるのは必定である。また、結城紬に対する知識の十分でない販売員であれば、悪意はなくても結果的に同じことになるのも考えられる。結城紬の場合、紛らわしいラベルであることは間違いない。そういう消費者にとって紛らわしいラベルについても販売する側でははっきりと説明する責任がある。

ⅴ-ⅲ 良いきものの証(その11)

博多帯の証紙については、「きものフォトトピックス11.博多織工業組合証紙」と「同12.博多織工業組合証紙改定」で詳しく書いたが、現在の証紙は以前の証紙ほど商品を差別化できなくなってしまった。

博多織工業組合は西陣織工業組合と並ぶ老舗的な組合だけれども、なぜこのように改定してしまったのか、私は疑問に思っている。

西陣の証紙、博多織の証紙、どちらも時代とともにその意味するところが微妙に、あるいは大きく変わっている。とはいえ二つの証紙共はっきりとした基準を提示し組織もしっかりしている。

しかし、証紙の中には基準がはっきりしないものもある。

西陣の帯に添付してある「手織りの証」という証紙は私の知る限り三種類ある。おそらく、それぞれ主催している組織では、その判定基準があるのだろうけれども、そもそも何故三種類あるのかがわからない。

「手織り」とは手で織ったもの、すなわち機械で織ったものではないという意味なのだろうけれども、どこまで手を掛けたものを「手織り」と言うのか。中国や諸外国で織られたものでも手で織ったものであれば「手織りの証」が添付されるのか。基準ははっきりとしているのかもしれないが、同じような証紙がいくつも乱立していれば、どれが何を保証するものかわからなくなってしまう。

こり「手織りの証」をはじめ証紙の中には、なし崩し的になくなったものもある。いつの間にか証紙がなくなってしまうのは、それを発行する基盤が脆弱であることを意味している。証紙は信用の証である。その発行する基盤が信用できるところでなければ証紙の信用も崩れかねない。

「手織りの証」は「手織り」と言うたいへん素人受けする文言を関しているだけに消費者は誤解なく理解する必要がある。インターネットの帯を販売するサイトでは、「手織りの証付」と強調しているものもある。

どんな証紙であれ、証紙が貼ってあれば金科玉条を意味するわけではない。消費者がし宇品を選ぶ際には、証紙の本当の意味を理解した上で、購入の参考としなければならない。

もしも、販売員が証紙をたてに売り込んできたならば、証紙の意味するところを詳しく説明してもらえばよい。そとて、納得して商品を購入することである。