月別アーカイブ: 2015年5月

Ⅲ-ⅰ 常識・しきたりとは何か(その2)

辞典で「しきたり」と引けば『古くから決まって行われるやりかた。ならわし。慣例』とある。また「常識」と引けば『その時代や社会で一般人が共通にもっている知識、または判断力・理解力。わかりきった考え。ありふれた知識。』とある。

きものの世界で言われる「しきたり・常識」とはそのような定義で計れるものなのだろうか。

しきたりについての話題は大きく分けて、「格のしきたり(TPO)」と「季節のしきたり(TPO)」の二つがある。

「あなた、この席にそんなきものを着て来てはいけませんよ。」というのが「格のしきたり」である。

「今の季節は、○○を着なければなりません。」というのが「季節のしきたり」である。

どちらも言われた事のある人は多いと思う。まず、「格のしきたり」について考えてみよう。

私も着物の世界を良く見てきたつもりだし、呉服屋としてお客様にアドバイスしなければならない立場でもある。

「来月○○が有るのですが、何を着て行ったら良いのでしょう。」と言うお客様の質問には的確に答えなければならない。お客様もそれを期待しているだろうし、着物の経験が少ないお客様にとっては神の声を聞くような気持ちかもしれない。

しかし、私は神ではないし100%正確に答えることはできないと思っている。それは何故か。きものの世界で言う「しきたり・常識」とは『古くから決まって行われるやりかた。ならわし。慣例』『その時代や社会で一般人が共通にもっている知識、または判断力・理解力。わかりきった考え。ありふれた知識。』とは違うように思えるからである。

きもののしきたりとは「古くから決まって行われるやりかた。」なのか、と言われれば疑問が残る。「格のしきたり」を良く観察してみれば、巷で言われているしきたりは、そう古いものではないことが分かる。

私が子供の頃、卒入式に着物を着てくる父兄(母親)は結構いた。彼女らが着てくるのは決まって色無地に黒絵羽織だった。訪問着や小紋を着てくる人が居たのかどうか分からないが、当時、色無地に黒絵羽織は常識だった。

しかし、わずか50年も経ずして黒の絵羽織は業界でも姿を消している。

「女性の正装では羽織を着ない」というしきたりも巷で通っている。しかし、前述の黒絵羽織もそうだけれども、更に昔戦前には女性の正装は縞御召に黒羽織だったそうである。

正装どころか「女性は羽織は着ない」と言ったことも良く聞いた。私が子供の頃、母や祖母は、お客様が着物を選ぶと必ず帯と羽織を合わせて奨めていた。「この小紋には、この羽織が良いでしょう。」と言う具合に。それがいつの間にか「羽織は着ない」事になってしまったらしい。そして、とうとう呉服の商品で「羽尺」が姿を消してしまった。それでも最近は又若い人が長羽織を着ていたりする。

「羽織を着る着ない」がしきたりだとするとおかしな話である。それは「しきたり」ではなく「流行」というものだろう。

「付下はどのような時に着るのですか。」と言う質問も良く頂く。もちろんお答えはするけれども、付下は昭和30年頃にできたものである。そして、付下の形式は当時とは大きく変わってきている。(「きもの講座2.きものの格について」http://www.kimono-yukiya.com/kenkyukai/kimonokoza/02.html参照)

50年足らずの間にその性格が大きく変った付け下げについて、それをしきたりの議論に持ち込むのはどうだろうか。

このような例は枚挙にいとまがない。

つづく

Ⅲ きものの常識・きもののしきたり

Ⅲ-ⅰ 常識・しきたりとは何か

きものの世界では「しきたり」についてよく話題になる。しきたりを守るというのは着物の世界に限らず日常生活の中では当たり前である。それは日本に限らないだろう。どこの国でも守るべき「しきたり」があり、それは「常識」とも呼ばれている。

しかし、着物の世界では、それには特殊な意味合いがあるように思える。

何時どのような着物を着たら良いのか。それはTPOとも呼ばれ、洋服の世界でも守らなければならないしきたり・常識としてある。葬式に赤いワンピースで参列するのは常識に反している。格式の高い場で男性はネクタイやジャケットの着用を求められる。いずれも洋服の常識、洋服のしきたりである。

着物の世界ではどうだろうか。着物には格があり、留袖、訪問着、付け下げ、色無地、小紋、紬など、第一礼装から普段着まで段階が決まっている。そして、それに合わせる帯も丸帯、袋帯、名古屋帯、半巾帯と種類があり、その素材や織り方、柄によっても格付けがなされ、その組み合わせにもしきたりがある。

日本の着物では、それら形式的な格付けとは別に季節によるTPOがある。季節のしきたりに従って着物や帯を選ばなければならない。季節はずれの装いは、しきたり・常識に反する事になっている。

洋服の世界でも季節による違いはある。しかし、洋服の場合、季節の洋服は形状が異なり誰でも判断できる。半袖は夏物であることは視覚的に誰でも判断できる。同じように洋服の世界では、格によって形状が違う。スーツとワンピースは一目瞭然である。イブニングドレスとスーツもまた形状が異なる。

日本のきもののTPOが分かりづらいのは、「着物の形は皆同じ」ということに由来している、と言えなくもない。第一礼装である黒留袖と普段着である紬の着物の形は基本的に同じである。留袖に比翼が付いていたり、紬の袖丈が短かったり細部では異なるけれども、基本的には同じである。夏物の着物と言っても裄が短くはない。スーツとワンピースのような形状の違いはない。また、男の着物女の着物も基本的には同じである。

これらの事情がきものしきたり・常識を分かりにくいものにしているのは否めない。

しかし、きもののしきたり・常識はもっと人為的な理由で分かり難くしているのではないだろうか。

洋服でTPOに迷う人はそういないだろうと思う。着物を着ようとすると、何を着て行ったらよいのか迷った経験のある人は多いだろう。何が着物を着ようとする気持ちを迷わせるのだろうか。

迷うだけであれば良いが、迷う気持ちが着物を着るのを躊躇させることは無いだろうか。もしそういう事があるとすると何かが間違ってはいないだろうか。

果たして、しきたり・常識とは何なのだろう。

つづく

Ⅱ-ⅷ 呉服の商売とは

「きものの販売手法」として種々書き連ねてきたが、呉服の商売をしている私自身が「呉服の商売とは?」と自問自答してしまうことしばしばである。「きものの販売手法」に限らず「商売とは何だろうか?」と考えてしまう。

商売とは物を売って(あるいはサービスを提供して)対価をもらうことである。仕入れ値と販売価格の差が粗利となり経費を差し引いて利益となる。商売をする者は商売人と呼ばれ、商売人である限りできるだけ利益を出そうとする。多くの利益を出すことが商売成功の証である。

私も商売の道を志した。京都の呉服問屋で修行をして山形に戻り30年以上になる。しかし、今でも解せないことがある。

京都に修行に行った時、学ぶべきは商品知識と商売の手法だった。それらは問屋の先輩社員に教えられ、また取引の呉服屋の手法を見て覚えて行った。しかし、そんな中で次の様な会話がなされていた。

「こうやればこの商品は売れます。」

「お客様に買う気にさせるにはこうすれば良いです。」

「初めてのお客様にはこのようにアプローチします。」

「こうやれば客は『ウン』と言います。」

いずれも私には違和感のあるものだった。

商売は、商品を欲しいお客様に売るのではなく、商品を欲しいと思っていない人に如何に売るかである、とでも言っているようだった。それは哲学にも等しいのではないかと思えるものだった。

多くの利益を出すこと、イコール売上を伸ばすこと、これは商売上間違いがない。売上を伸ばすこと、より多くの商品を売ることは商売の目的である。しかし、もう一つ商売には重大な目的、使命があるのではないだろうか。

商売の言葉で「三方良し」というのがある。三方とは「売り手」「買い手」「世間」のことである。「三方良し」とは商売は「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つであるという。

商売をすることは、売り手にとっても買い手にとっても、また世間にとっても良いのが「三方良し」である。

売り手にとっては、商品が売れる。(儲かる。)

買い手にとっては、欲しいものが手に入る。(適正な価格でと言う意味も有るだろう。)

世間にとっては、世の中を豊かにする、景気を良くする等の意味があるのだろう。

商売が巧く行くことは自分(売り手)にとって良いものであることは言うまでもない。しかし、買い手や世間を害するものであってはならない。売り手だけが良く、買い手や世間が害を受けるものは詐欺と呼ばれる。それは売り手がいくら儲かっても商売とは言えない。

正当な商売の範疇であるかどうか、それは一線を引けることではないけれども現在の呉服の商売は余りにも偏っているのではないだろうか。少しでも正当な商売に戻していかなくてはならないし、それができなければ、呉服業界は益々衰退してゆくように思われる。

Ⅱ-ⅶ 何でも売る呉服屋(その2)

さて、表題に記した「何でも売る呉服屋」とは、上記に記した「呉服に関する商品は何でも売る」店を指すのではない。最近の呉服屋は、呉服以外の物を何でも売る。何でもと言っても、そこには「儲けやすい物」と言う制限が付いている。

宝石、毛皮、高級バック、絨毯から健康器具まで、呉服屋では何でも売っている。

呉服の展示会に行ったことのある人ならば経験したことと思う。そこでは宝石、毛皮など呉服以外の高額な商品が並べられていることがある。また、宝石や毛皮、健康器具、絨毯などの単品催事を行う呉服屋もある。呉服屋に慣れた消費者であれば格別違和感を感じなくなっているかもしれない。

私の店でも昔、問屋からそのような商品を扱うように奨められたこともあった。また、呉服とは全く関係のない商社の営業マンがやってきて「宝石を扱いませんか」「毛皮の催事をやりませんか」と誘ってきたことがあった。

宝石、毛皮、高級バックと言っても私には商品知識も無ければ相場観もない。無責任な商売はできない、と言うと、その営業マンは「客を集めてくれれば、あとはこちらで説明して売りますから。」ということだった。

何故、呉服屋で呉服以外の高額品を扱おうとするのだろうか。

呉服屋にしてみれば、着物が売れないご時勢で、何とか売上を確保したい気持ちもあるのだろう。そして、それが高額品であれば手っ取り早く儲けられる。客を集めさえすればあとは全て商社から派遣された専門家がやってきて説明して売ってくれる。

商社にしてみれば、狙うのは呉服屋が持つ名簿である。高額品を買いなれた名簿を持っている呉服屋は格好のターゲットである。高額品を買う消費者を求めている商社、着物以外に売上を手っ取り早く創りたい呉服屋の利害は一致している。

しかし、呉服屋は果たして消費者に対してそのような商売に責任が持てるのだろうか。

商品知識も無く相場観にも疎い人間が消費者に高額品を売る責任をどう考えているのだろうか。

もちろん、商品を扱うに当たってはいくらか勉強するかもしれないが、それはどれほどのものだろうか。宝石一つとってみても、どれだけの知識をもって消費者に説明できるのだろうか。「このダイヤモンドは・・・」と言って販売する裏にはどれだけダイヤモンドの知識が必要だろうか。健康器具を扱うのに、本当にその機能を理解して販売しようとしているのか。はなはだ疑問である。

それは呉服を裏返せば話は早い。

呉服を売るのにどれだけの知識が必要か。商品知識、仕立の事、価格(相場観)等々。うろ覚えの知識で販売できるものではない。いや、販売はできるだろうが、それが何を意味するのかを考えればよく理解できると思う。

呉服屋はあらゆる販売方法を駆使して、あの手この手で高額な着物を売る術に長けている。そして、その術をもって高額品であれば何でも売ろうとする呉服屋が多い。

呉服屋の中には、きちんと専門部隊を設けてそのような商品を販売しているところもあるが、多くはただ売るための商売になっているように思える。

扱う商品が高額であるだけに、その弊害のしわ寄せは全て消費者にのしかかっている。

Ⅱ-ⅶ 何でも売る呉服屋

呉服屋は呉服を売るのが生業である。呉服と言うのは、着物、帯その他小物等、着物に関する一切合切を扱っている。一切合切と言えば聞こえが良いが、着物に関する商品を全て扱うというのは難しい。

例えば着物の表生地と言えば何があるだろうか。留袖や訪問着と言った高価な着物から綿反、ウール等の汎用品まである。ウールと言ってもネル、セル、メリンスなど様々である。それらを全て扱っている呉服屋は少なくなった、いやほとんど皆無だろう。

私の店では、着物に関する商品はできるだけ扱うようにしている。ネル、セル、メリンスはもちろん絹との交織、シルクウールなども扱っている。

小物も色々と揃えている。小物を求めてやってくるお客様とは次の様な会話がしばしば交わされる。

「すみません。○○は扱っていますか。」

「ええ、ございます。」

「えっ、あるんですか。ずっと探していたんです。」

○○に入る商品は、メリンスであったり、黒八(袖口や襟に使う黒い布)、別珍衿、その他様々である。着物を着付ける、または仕立てる為の必需品である。また八掛を買いに来る人もいる。

「八掛って売っているんですね。どこの呉服屋さんでも見本だけで現物を置いているところが無いんです。」

そんな言葉が聞かれる。

何故呉服屋はそのような商品を扱わなくなったのだろうか。中には足袋さえ扱わない呉服屋もあるという。夏物は扱いませんという呉服屋も多いと聞く。

答えは簡単である。「売れないから、在庫しておくのが面倒だから。」の一言である。

呉服屋は着物を着ようとする人の為に商売をしている。「売れないから」と消費者にとっては必要欠くべからざる商品を扱わずに呉服業が成り立つのだろうか。

しかし、実は「売れないから」と言うのは口実である。真意は「手っ取り早く儲けたい」の一言である。50万円の訪問着を売るのに慣れた呉服屋にとって1尺250円の黒八売るのは面倒なのだろう。20.000円のメリンス襦袢を奨めるよりも、50.000円の正絹襦袢を奨めた方が良いと思っているのだろう。

つづく