Ⅶ-19 伝統・しきたりは守られるべきか(その2)

実は先頃私に初孫が誕生した。孫はかわいいものである。若い時には、「孫の為には何でもしてあげたい。」と言っている年配の方を見ると「何とも婆バカな。」と思っていたが、私も「爺バカ」であった。

私が孫に何をしてやれるのかと言えば、職業柄宮参りの掛け着の用意である。日本の伝統的しきたりとして、生まれた子を連れて神社に詣でる。その際、抱いた子供に着せ掛けるのが「掛け着」あるいは「一つ身」「祝着」とも言う。着物と言っても生まれたての赤ちゃんに着物を着せる訳ではない。赤ちゃんを抱いた上から掛ける着物である。

さて、誰が赤ちゃんを抱くのかと言えば、伝統的なしきたりでは父方の母親が抱いて宮参りする事になっている。赤ちゃんを産んだ当の本人である母親は手ぶらで参ることになる。こういったしきたりが長年続けられてきた。

ところが、知人の話によると、息子の子供を宮参りで写真館に行ったところ、息子の嫁が子供を抱いて祝着を掛けて写真を撮った。写真館の人の指示に従ったところ母親は幕の外で、嫁が抱いて当然と言う風だったと言う。伝統には全く目もくれずに親子三人の写真となった。

赤ちゃんは、嫁が抱くのか母親が抱くのか。これもまた、「伝統・しきたりは守られるべきか」の論点となりそうである。

生まれた子供を宮参りさせるときは子供の母親が抱いて行く、と言うのは理にかなっているし、当たり前に考えれば当然のようにも思える。それでは何故父方の母親が抱いて祝着を掛けるのか。それには、それ相応の理由がある。

様々な理由があるらしいが、良く言われるのは、「出産後の女性は不浄なので、神社に詣でてお祓いをしてもらうまでは子供を抱っこさせない。」と言うものである。不浄と言うのは、昔は血を流すこと、血を出すことが不浄と考えられ、出産に際して血を流した母親の体には穢れがあると考えられていた。

出産した女性は不浄なのか、と言えばその科学的根拠もないし、議論しても始まらない事であろう。「昔の人はそう考えた。」としか言えないだろう。そう聞けば、反伝統派の人達は、「それなら意味がない。」といきり立つように思える。

しかし、伝統やしきたりには意外と合理的な意味が含まれていることが多い。お茶の作法や食事の作法等、昔から伝えられた伝統やしきたりは理に適っているようにも思える。

食事の時の茶碗とお椀はどちらが右でどちらが左か。日本の食事では茶碗やお椀を手に持って食べる事になっている。茶碗やお椀を持つのは左手である。茶碗とお椀のどちらを手に持つ頻度が高いのかを考えれば自ずと答えが出てくる。

また、何故茶碗やお椀を手に持たなければならないのか。最近はテーブル席が多いために茶碗を持たずに食べる人も見かけられる。しかし、御膳に座って見ればよく分かる。御膳では茶碗と口の位置が離れているために茶碗を持って口に近づけるのが理にかなっている。

お茶の作法もしかりである。お点前で建水を後ろに下げる仕草がある。何故建水を後ろに下げなければならないのか。洋服でお茶を習っている人はつい飛ばしてしまうらしいが、着物を着てお点前をすればその意味がよく分かる。建水を下げなければ袖を濡らしてしまういとった事がある。お茶の作法は傍から見ると面倒くさそうに思えるが、実は合理的に組み立てられているらしい。

さて、それでは宮参りで父方の母親が子供を抱くのはどのような合理性が伴っているのだろうか。

つづく

Ⅶ-19 伝統・しきたりは守られるべきか

着物についての伝統やしきたりについては以前から触れてきた。しかし実は私はこの「伝統・しきたりは守られるべきか」と言う議論には巻き込まれたくないと思っている。決して責任を逃れたりノンポリを決め込むつもりはないのだけれども、この議論は果てしなく勝敗は決してつかないからである。

この議論が始まれば、「伝統は守られるべき」と言う肯定派と「伝統は時代と共に変わる」「昔の悪弊を引きずる必要はない」と言うような否定派が喧々諤々の論争を交わすことになる。しかし、どちらかが相手を論破して納得させると言うのはまず起こり得ない。どちらも自説を唱えるのみで、妥協点を見いだせる物でもない。結局、何の結論も見いだせずに、場合によっては敵愾心のみが醸成されてしまうのである。

着物に限らず伝統やしきたりを現代の世の中ではどう見たらよいのか、実に大切な問題ではあるけれども、巷ではそれぞれがそれぞれの解釈でコンセンサスは見出されていない。

今回、紙面をもってこの難問を考えて見ようと思うが、これは議論ではなく私の個人的な見解を一方的に書くものである。どのような批判が浴びせられるか分からないが、一方通行の一撃離脱ブログである。

この表題が思いついたのは、ニュースを賑わせた角界のさる事件だった。

ご存知のように、土俵で倒れた男性に心臓マッサージを施そうと女性が土俵に上がった際、「女性は土俵から降りてください」のアナウンスが流れた。詳細は書かずとも事の次第はご存知の事と思う。

「土俵に女性は登れない」と言う伝統と、「命を救おうと土俵に登った女性」の間に齟齬が生じニュースを賑わすこととなった。

結果から言えば、一刻を争う救命に立ち上がった勇気ある女性(看護師?)に対して「土俵に登るな」は的を得ていない、と言うのは衆目の一致する処だと思う。インターネットやSNSでも「女性は土俵から・・・。」への批判が多かった。批判の声が渦巻く中、八角理事長は謝罪の声明を出した。当然の対応だったが、あるいは「女性は土俵から・・・。」と咄嗟にアナウンスした本人も「まずい事を言ってしまった。」と思っているのではないだろうか。

しかし、問題はこれに留まらなかった。その後も女性の土俵への登壇の是非が問題視され、土俵の下で挨拶をした宝塚市長は登壇できない事への不満を挨拶の中でしたと言う。本人は「伝統は撤廃すべき派」なのだろう。もちろんその主張には一理も二理もある。相撲協会の不手際に乗じて一気に伝統の撤廃を主張する良い機会と捉えたのかもしれない。

私は再度申し上げるが、このよう議論には関わりたくない。宝塚市長の言を受けて相撲協会が白旗を掲げて伝統を完全に撤廃する事はないだろうし、もしもそうした場合、また多くの不満が反対派から噴出するだろう。決して決着は付かない問題だと思う。

さて、相撲の話になってしまったが、着物の世界では相撲の世界以上に伝統やしきたりが論ぜられる。両派の議論に関わりたくないと言って耳を塞いでただ黙っている訳には職業柄いかない。この問題はどのように捉えれば良いのだろう。

つづく

Ⅶ-18 着物との本当の付き合い方とは・続編(その2)

ご主人の好みも聞きながら、
「これは仕立て替え。」「これは丸洗いして裄を出す。」「これは丸洗いだけ。」
と分けて行った。

結局、二着を仕立て替え、アンサンブル二着を含む六着は丸洗いして裄を出すこととなった。
「全部加工するのに、ちょっと時間を頂きますが、単衣と夏物はできるだけ早くします。」
そう言って加工する着物を風呂敷に包んだ。

「どうぞ、お茶を御一服。」
と言う奥さんの声に、茶の間でお茶を頂いた。

御主人は奥さんに一言。
「いやー、お宝があるかと期待したけど、やはり無かったよ。」
御主人も、何かお宝があればと内心期待していたようだった。しかし、着物は皆大切に保管され、加工すれば十分に着られるものだった。御主人にとっては、着られないお宝よりもずっと値打ちのあるお宝だったと思う。

丸洗いして裄を出しても加工代は一着当たり二万円足らずである。それで六着の着物が着られるようになったのである。本来着物はこのように着継がれるべきものである。

巷の呉服屋で聞かれる「着物は長く着られますから。子や孫、末代まで着られますよ。」と言う売り口上は全くその通りである。しかし、全国の呉服屋さんはそれを実践しているだろうか。最近の展示会商法や訪問販売を見ていると疑問を抱かざるを得ない。

呉服屋に限らず商売はお客様の立場に立ち、プロとしてどんな商品、サービスをお客様に勧めたらよいのかを考えなければならない。商売を長く続けようと思うのならば、お客様の信頼は欠かせない。

お客様の好みに懐具合も考え併せ適切な商品を進める。加工するのであれば、どのような加工ができるのか、そして安くできる加工法も合わせて考えお客様に提示する。そう言った事が今の呉服屋には欠けている様に思える。

呉服屋に、仕立替えや加工を頼みに行くと、「できません。」「加工するなら新しく作った方が安いですよ。」の一言で追い返される話も聞こえてくる。「着物は孫末代・・・。」の売り口上は何だったのかと思う。

親や知人から譲られた着物を大切に着る事を今一度考えて見てはいかがだろうか。

近くの呉服屋、行き付けの呉服屋に持ち込んで着物にもう一度命を吹き込んで欲しい。本当の呉服屋であれば、喜んで相談に乗ってくれるはずである。乗ってくれないのであれば、それは唯の呉服を売るだけの業者である。

消費者の熱心な思いがあれば、呉服業界も変われるものと思う。

Ⅶ-18 着物との本当の付き合い方とは・続編

『Ⅶ-ⅻ 着物との本当の付き合い方とは』で紹介した御主人が来店された。

「先輩、ようやく蔵の片づけが終わりました。先代の着物が沢山出てきたのですが、見てもらえませんか。着られるものがあったら、私も息子も着たいと思いますので。」

前回紹介したように、この親子は着物を着る。新しい着物やしゃれた着物を着たいのではなく、ただ生活の中で着物を着ているのである。折角出てきた先代(祖父)の着物が着られるのかどうかを見てもらいたいと言う事だった。

「先代は背が低かったので着られるのかどうか分からないのですが。」
先代の方は、私も生前お会いしたことがあるが、背が低かった。

「昔の人は着物を大切に着ていたので、おそらく内揚がしてあると思います。見て見ないと分かりませんが、内揚があれば仕立て替えはできると思います。裄は、相当昔の着物でなければ反物幅はあるはずですので伸ばすこともできます。とりあえず見て見ないと分かりませんが。」

呉服屋の仕事は、反物を売る事ばかりではない。着物に関するお客様の相談に乗ることも仕事である。まして、丸洗いや仕立て替え、寸法直しも商売である。

「ちなみに明日の二時に来ていただけますか。」

私はもちろん承諾して翌日の二時に、物差し三本(鯨、曲、メートル)と本人と息子さんの寸法表を携えて自宅に伺った。

自宅に上がると、
「着物は居間に並べてあります。」
と今に通された。

タンスの引き出し六つ程、中には着物が山積みされている。

「すごい量ですね。」
と言うと、
「我が家は贅沢をしないので、お宝はないと思いますが、とりあえず見てください。」
そして、
「私は冬場の着物はあるのですが、夏の着物を欲しいと思っています。しかし、どれが夏物なのかもわからなくて。」

その言葉に、私はとりあえず並べてある着物を袷、単衣、薄物の三つに分類した。全部で三十着くらいだろうか。袷も単衣も夏物もある。私は夏物から一着ずつ見て行った。

身丈を計り、内揚があるのかどうかを確かめた。全ての着物の中で、内揚がされていなかったのはたった一着だった。昔の人が後々の事を考え、如何に着物を大切にしていたかが伝わってくるようであった。

麻の着物があったのでご主人に羽織って見てもらった。何故か身丈はそう短くはなかった。まして夏に着る着物である。身巾は問題ない。裄が少々短いくらいだった。

「この着物は内揚があるので、解いて仕立て替えれば、寸法通りに仕立てられます。しかし、解いて仕立て替えとなると加工代がかさみます。丈が気にならないようでしたら、丸洗いして裄だけ直す手もあります。」
私は大体の見積もりを提示してそう言った。

「それじゃ、洗って裄だけ直してください。」

他の着物も一着一着点検しながら見て行った。

つづく

Ⅶ-17 着物難民(その3)

また、専門店でも若手の経営者は販売を重視するあまりに、若い客に対して様々な提案をしている。浴衣を着物の様に着る着方であったり、男性の襦袢に赤い半襟を付けるなど、今までになかった着物の着方である。それは、新しい着物の着方の提案として必ずしも悪いことではない。

しかし、十分に着物の伝統、今迄の着物の着方を熟知したうえでの提案であればよいが、それらはないがしろにされている。

呉服業界の人口が減少しているとは言っても、業界に入る若い人、または初めて呉服に触れる人達が増えている。丁稚から修行したような呉服を熟知した業界人は次第に減っている。と言うよりも激減している。

この先、気が付けば着物や仕立て、着物のしきたりを知る人がいなくなり、着物の営業マンはお客を集めるだけの人、専門店もお客にうけるような商品ばかりを扱うようになってしまうかもしれない。

多くの消費者は呉服屋の営業に踊らされるばかりで、着物の本質を知らないで着物と付き合う事になるかもしれないが、それでも僅かでも本当の着物を求める人達は必ずいる。昔からの染織の良さを解し、流行や上辺の営業に動かされない人達である。

そう言った人達は、本当の着物を教えてくれる呉服屋がなくなり行き場を失って行くかもしれない。どこへ行っても、奇を衒って創作された着物ばかり。仕立て替えを頼んでも要を得ず、「新しいのを仕立てた方が早いですよ」と言われ、寸法の直しさえも取り合ってくれない、あるいは取り合わない呉服屋ばかりになった時、着物難民として行き場を失ってしまうだろう。

着物難民が発生するのかどうか。発生しない可能性はある。一つは、本物の着物を求める消費者が皆無となる事である。手描もプリントも区別がつかずに満足する。着物を長く着る為に寸法を直したり、成長体形の変化に合わせて何度も仕立て直しをする人もいなくなる。着物を子や孫に伝える人がいなくなる。

そうなれば、自ずから着物難民は消滅する。消滅すると同時に私の店も消滅する事になる。

もう一つ、着物難民を発生させないためには、今からでも遅くはないから呉服業界が原点に戻って着物を考える事である。丁稚徒弟制度を復活せよとは言わないが、プロとしてお客様に接せられるような業界人を育てる事である。

不幸にして着物難民が大量に発生した場合、冒頭に書いた「今に着物難民が溢れますから、お宅の店に殺到するかもしれません。」と言う言葉が具現化するためには、私の店もまだまだ研鑽を積まなければならないと思っている。

Ⅶ-17 着物難民(その2)

このような変化の中で、業界に従事する人が劇的に変化してきている。

具体的な統計は分からないが、呉服業界に従事する人の数が減っているのは間違いない。

どんな業界でも規模が縮小すれば当然従事する人の数は減る。しかし、健全な規模の縮小であれば、その人口構成はそれ程変わらないだろう。年齢構成、役割の構成、仕事の習熟度など絶対数は減っても業界を支える事の構成はそう変わらないはずである。

しかし、呉服業界では人の減少だけでなく質的に大きく変化してきている。その質的な変化が呉服業界に大きな暗い影を落とそうとしている。

昔の呉服屋は、旦那の下に番頭が居て、手代、丁稚がいた。丁稚は使い走りをしながら仕事を覚えて手代となる。手代同士の相当熾烈な争いの後、優秀な手代が番頭となる。呉服屋でも薬屋でもその他どんな商売でも丁稚は掃除から覚え次第に仕事を覚えて行く。商品知識から接客まで旦那の目に叶った手代が番頭となった。

現代でも呉服屋では同じようだった。年嵩の先輩社員から商品知識を得て、お客様の事を覚え接客の技術を身につける。呉服の小売では、商品の知識だけでなく仕立てに関する知識も必要とされる。私は問屋で修業したけれども、問屋では商品の知識は身に付いたが、仕立についてはほとんど分からなかった。家業に戻ってから当初は仕立てで苦労した。お客様の方が仕立てに詳しい事もあった。訪問着の仕立てから子供の着物、宮参りの着物から半天まで、販売する者としてはお客様に「分からない」では済まない。

呉服の商売が如何に難しいかが身に沁みついているし、今でも分からないことが沢山ある。お客様が求める物に如何に応えるのか、商売の難しさである。

しかし、ここ2~30年の間にこう言った事情が変わってきた。
業界に従事する人が急激に減ったために、人口ピラミッドの構造が大きく変わってきた。具体的な例では百貨店の呉服売り場でよくみられる。

百貨店の呉服売り場の急激な縮小で係員が減少した。当初は新人を入れずにベテラン社員が売り場を切り盛りしていたが、ある年齢に達すると一斉にその人達は退職となる。あわてて新人の係員を配置しても呉服の知識のない人ばかりである。それでは困ると、ベテラン社員の一部を継続して雇用して売り場を維持している。今でも百貨店の呉服売り場では白髪のベテラン係員の姿が見られる。

また、逆に急速に社員を増やしている呉服を扱う業者もある。大規模な展示会に客を集めたり、広範囲な訪問販売をしている業者である。先頃倒産して話題を集めた「はれのひ」や多額の負債を抱えて倒産した「たけうち」や「愛染蔵」などもその範疇である。

営業に当たる社員は呉服の知識がほとんどない。ただお客さんを集めるだけの社員である。商品の事は協賛の問屋に任せ、売るのを専門とする「マネキン」と呼ばれる人が販売にあたる。仕立ては仕立て専門の社員が当たる。といったような分業で着物の販売にあたっている。

家に訪問したり、仕立物を届けてもらったり、お客様の直接店の窓口となるべき営業担当者は着物の知識を持ち合わせていない。

つづく

Ⅶ-17 着物難民

先日、店にやってきた問屋さんと話していると「着物難民」と言う言葉を聞いた。
「今に着物難民が溢れますから、お宅の店に殺到するかもしれません。」
と言う話だった。「着物難民」とは何だろうか。

着物を取り巻く環境は大きく変わってきている。私が子供の頃、私が京都にいた頃、そして現在、環境は色々な意味で大きく変化している。

環境が大きく変わった最大の原因は、何といっても需要の急激な減少である。

1980年当時、市場規模が2兆円と言われていたが、某経済研究所の調査では2015年に3,000億円を切り、2,805億円だと言う。35年で何と市場規模が七分の一になってしまった。呉服業界の市場は、着実に且つ急激にその規模は減少している。

市場規模の減少は、流通する商品の減少を意味する。その結果、その流通を担っている問屋や呉服小売店も減少している。

問屋の減少は顕著なものがある。かつて京都の室町通りは呉服問屋の街だった。五条の辺りから御池通の辺りまでは呉服問屋が隙間なく軒を並べていた。もちろんその周辺も埋め尽くすように呉服問屋があった。通りは積み荷を降ろす問屋の車や配送する運送会社のトラックでいつもいっぱいだった。

しかし、今日室町通りを歩いてみると、問屋はまばらで、かつてあった問屋の跡は駐車場やマンション、電機屋などに姿を変えている。そして、東隣の大通りである烏丸通りの迂回道路として南進の車が走っている。

昔は問屋が星の数ほどあった。当時、問屋の社員は独立するのを夢見ていた。優秀な社員は次々と独立して、問屋は細胞分裂するが如く増えて行った。

私の店に来ていた出張員も独立して別な出張員が来ていた。そして、その出張員もまた独立して問屋を始めて通って着ていた。次の出張員も独立して、一時は同じ問屋にいた三人が問屋を始め、元の問屋と合わせて四つの問屋と付き合っていたこともある。

しかし、今問屋の数は激減し、私の店の問屋さんの名簿は次々に消され、昔から取引のある問屋はほんの数社しか無くなっている。

問屋の数と共に、小売屋の数も減少している。それでも小売屋の減少は問屋に比べてかなり時間差があったように思う。業界規模が縮小し、問屋の数が減る中で小売屋の数はなかなか減らなかった。ある小売屋が店を閉めても、番頭たちが独立して商売を始める、と言う事もあって出入りの問屋さんに聞いても、「小売屋さんは減りませんね。結構しぶとく商売していますよ。」と言う声が聞かれた。

しかし、ここ十年位で小売屋の数は減っている。京都にいた時分、音に聞こえていた地方の大手の呉服屋が次々と店を閉めたと言う話を聞く。「あんな立派な呉服屋が?」と耳を疑うようなニュースが飛び込んでくる。山形でも私の店の周辺で店を閉じた呉服屋は5軒にのぼる。中には、後継者がいなくて閉じた店もあるが、売上の減少によって閉店を余儀なくされた小売屋も相当にある。

つづく

Ⅶ-16 絹(その4)

その白生地屋さんの話によると、白生地の織屋さんが、輸入糸の価格や品質に振り回されるので嫌気を指し、全て昔ながらの国産の白生地を織ったという話をしていた。

国産の繭から国内で糸を引き、国内で白生地を織る。もちろん精錬の日本である。そうして出来上がった白生地は、価格が一反270,000円になったという。

「一反が270,000円の白生地なんて、余程高名の友禅作家ぐらいしか使えませんよね。」
そう言って、笑ってはいたけれども、その裏には白生地に対する危機感が感じられた。しかし、・・・。
「昔は絹の白生地ってそんなものだったんじゃないでしょうか。」
二人でそう言って顔を見合わせた。

「正絹」と言う言葉がなくなり、安い絹が出回り、絹が高級品であると言う感覚がマヒしていたのではないだろうか。270,000円の白生地など私は見たこともないし、祖父の時代も物価は違えども、絹はそれ程高くはなかっただろう。

しかし、もっとずっと以前。江戸時代はどうだろう。現代とは貨幣価値や比定する物がないので一概に物価水準は測れないが、今でいう270,000円以上の価値はあったのではなかろうか。

その時代、普通の町民は絹を着る事はなかった。絹の着物をまとえたのは、余程裕福な豪商の人達である。奢侈禁止令が出れば、羽織の裏に豪華な裏地を張って競い合ったと言う。絹地を「正絹」と言い、僅かな切れ端でも大切にしていた。

そして、更に昔、シルクロードの時代に絹は更に高価だった。

漢の時代、中国では絹1キログラムは労賃の6.4日分であったと言う。着物にする反物は一反7~800グラムである。従って白生地一反は約5日分の労賃と言う事になるだろうか。5日分の賃金と言えば、月給の約1/4にあたる。月給が人それぞれに違うので一概には言えないが、絹の反物一反が当時いくらぐらいかは想像できる。

そして、その絹地がシルクロードを渡って遥かローマにもたらされた時には、何とその230倍で取引されたと言う。具体的に現代に比定すればローマでは絹一反いくらで売買されたのだろう。

国税庁が発表した2016年の民間平均給与は421.6万円。月にすれば約35万円である。絹一反が月収の1/4とすると、約9万円になる。そして、ローマではその230倍である2,070万円と言うことになる。果たして本当にそんな値段で取引されたのかどうか分からないが、ローマでは絹の高騰が金の流出を招き、帝国の弱体化につながったとも言われている。

日本で絹織物が盛んになるのは明治に入っての事なので、江戸時代には生産性が悪く中国よりもずっと高かっただろう。縮緬の白生地一反270,000円と言うのは絹の本質的価値から言えば、そう現実離れした価格ではないかもしれない。

そうは言っても、絹は安いに越したことはない。極一部の金持ちしか着れない着物ではなく誰でも正絹の着物を着ていただきたい。それが今日、安価な海外の絹がそれを現実化している。

しかし、安価な海外の絹によって日本の絹が駆逐されかかっている。日本で大切に品種改良されながら育てられた高品質の絹が姿を消そうとしている。日本の絹がなくなろうと、絹であれば海外の物でも良いと言う考え方もあるかもしれない。しかし、その考えも通用しなくなりつつある。

日本以外にも絹の需要が増え、絹が日本に周ってこなくなる可能性もある。それが証拠に輸入される絹の価格が上がっている。日本産の絹にはまだまだ及ばないけれども、じわりじわりと絹の価格は上がっている。このまま行けば、絹の価格は高騰し、ややもすると入手さえ困難になるかもしれない。その時、日本は、呉服業界はどうするのだろう。

その頃は日本の蚕糸業界はほぼなくなっているかもしれない。蚕を育てる技術さえなくなっているだろう。もともと日本で育てた高品質の絹はなくなり、高価な海外産を買わざるを得なくなるのだろうか。

蚕から糸を採り、織り上げて精錬された「宝石のような縮緬」と言うのは唯の例えではない。今こそ日本の着物の素材である絹についてもう一度考えて見る必要があるように思える。

Ⅶ-16 絹(その3)

既に何年の前から日本の繭の生産は政府の補助金で支えられてきた。補助金により国産糸の価格は安く抑えられてきたが、それでも輸入品とは数倍の差があった。白生地屋さんが言うには、補助金がなくなれば、国産絹織物は現在の価格の三倍程度に跳ね上がるという。

白生地でも同裏地でも価格が三倍になれば、実質買い手はいなくなり、国産絹の生産は終了するのと同義である。

さて、先日白生地屋さんが店に来て白生地の話をした。最近、問屋さんが来て話をすると、良い話はない。問屋や小売屋が店を閉めた話や景気の悪い話などである。この度も、「白生地の織屋さんが一軒やめることになりました。」と言う話と共に「白生地がまた上がります。」と言う。

海外から安価な絹糸が輸入され、絹製品の価格は安くなっていたのだが、数年前から価格が上がり始めた。白生地屋さんが来るたびに「○○が上がります。」と言うのが繰り返されていた。どうして輸入絹糸の価格が上がり始めたのか。

絹糸が輸入され始めたとき、中国をはじめとする絹の輸出国はまだ開発途上だった。それらの国々は急激に発展を遂げている。中国に限って言えば、ご存じの通り、人件費が高騰している。中国に進出した企業が、人件費のメリットがなくなった為に国内に工場を戻す動きも見える。人件費の高騰は絹糸の輸出価格を押し上げている。

また、経済的発展を遂げた中国では、絹の売り先を日本に限らず他の国もそのターゲットにしている。初期の稚拙な生産設備であれば、輸出先は技術協力も得て日本くらいしかなかったのかもしれないが、ヨーロッパをはじめとして絹糸に対して感性の高い国にも輸出を広げている。そこには「どちらが儲かるか。」と言うごく当たり前の判断が伴っている。

中国の産地の中には繭から絹糸を作らずに、真綿の生産に切り替えているところもあると言う。必ずしも日本の呉服業界のみが輸出のターゲットではなくなっている。

また、生活程度が向上することによって、自ら絹を消費するようになり、必ずしも絹糸の生産が輸出の為だけではなくなってきている。これは、絹に限らずあらゆる贅沢品に見られる。

世界中のマグロをほとんど消費していた日本は、海外でも寿司が食べられるようになり、日本にマグロが入らなくなっている。コーヒーもモカが貴重品になっているらしい。香木もしかりである。

今後、益々絹糸は高騰するかもしれない。高騰で済めば良いが、世界中で絹糸の奪い合いに成った時、既に国内生産するすべがなく国内では供給できない。となると果たして白生地の運命は、呉服業界の運命はどうなるのだろうか。

つづく

Ⅶ-16 絹(その2)

何故海外の絹は安いのか。一つには、為替、人件費の差がある。かつて中国の人件費は安く日本とは比べものにならなかった。人手を使う絹の生産に日本の人件費は高く、絹は高額なものとなった。

それともう一つは、日本の絹生産の品質管理である。日本の繭は数百年にわたって品種改良し、世界でも冠たる品質を有している。良質の繭は、糸が細く均質である。その品質を守るために日本の養蚕農家は手間暇を掛けて繭を生産している。その結果、糸も高額になる。中国やブラジルでは、粗製濫造とまでは言わないまでも、日本の養蚕ほど手を掛けていない。安く大量に生産することによって輸出して外貨を稼いでいる。

海外の繭と日本の繭の価格の差はいかんともしがたい。安価な海外産の前に国産繭は価格的にはひとたまりもない。海外産の繭に国産繭は駆逐されていった。

実は品質において両者は雲泥の差がある。しかし、日本人の「絹」と言う言葉に対する信仰がかえって海外繭の流入を促進することになる。「絹がそんなに安く入るのならば・・。」と言う気持ちだっただろう。それまで絹を使わなかった繊維製品も絹地のものが作られ、呉服においても安価な輸入品が流入する。

それでも呉服業界、とりわけ白生地業界においては品質の保持にはかなり気を遣っていたように思う。生産された繭から縮緬や羽二重の反物になるには、いくつもの工程をある。大きく分ければ「製糸」(繭から糸を作る)、「製織」(生地を織る)、「精錬」(繊維に付着した糊セリシンを落とす)等の工程がある。

海外の絹が入ってきた当時、様々な試みがなされたようである。全ての工程を海外の安価な労働力に任せた場合、やはり不都合が起きたのかもしれない。海外の絹が呉服業界に定着してきた頃、反物の品質表示には「製織地 日本」とか「精錬地 日本」と言う表示もあった。糸は海外の物を使うとして、どれだけ日本の伝統技術を製品に注入するのかと模索したのだと思う。

安い海外産の絹が入ってきて価格的に無視するわけには行かない。さりとて品質のいい加減な反物を市場に流すわけには行かない、と言う葛藤があったのではないだろうか。

結果的に海外品の流入は繭の生産者を直撃した。かつては全国各地で繭は生産されていた。私の家の蔵も、昔蚕を飼っていた蔵だと言う話である。山形市にも養蚕試験場があった。子供の頃、そのゴミ捨て場に蚕を拾いに行った物だった。全国には名だたる繭の産地も多く存在した。今日に名を遺す名だたる繭の生産地以外でも繭は生産されていた。

しかし、徐々にその数は減って行き、現在組織的に繭を生産しているのは、群馬県と山形県のみになってしまった。そして、その生産量は激減している。そして、それらの産地でも間もなく繭は生産できなくなると言う話である。

つづく