Ⅶ-ⅺ 再度、着物の価値について(その2)

訪問着の畳紙に値札が入っていた、印字された数字は「1,000,000円」。おそらく高額の商品を買った証として買った人が大切にとっておいたのだろう。そして更に値札の裏には赤で「700,000円」の印字があった。

私も呉服屋の端くれである。着物の値段とは30年以上向き合っているし、算盤をはじきながら仕入れもしてきている。目の前にある着物を仕入れようとしたらいくら位かは大体分かるつもりである。私の頭の中では、どう算盤を弾こうとも1,000,000円の数字は出てこない。

札を見れば、その着物を打った人の次のような売り口上が聞こえてくる。
「奥さん、これは1,000,000円の作家物ですが、今回は700,000円で買えますよ。」
着物の持ち主がいくらで購入したかは分からない。しかし、私の目にはとても700,000円の着物には見えない。

さて、弁護士の奥さんから私が要求されているのは、この着物の「価値」を判断することである。私は何と答えて良いか分からなかった。「着物の価値」とは何を意味するのだろうか。

「価値」と言うのは、どんな商品であれサービスであれ、その立場によって変わる物である。着物の価格の形成はとても複雑であることは既に述べた。

私の立場で着物を見れば、「いくらで仕入れる価値があるのか」「いくらで売る価値があるのか」が直感的に頭の中に浮かぶ。仕入れに行って欲しい商品を目にしたときは、直ぐにいくらで仕入れればよいのかが頭に浮かぶ。それは売る価格を考えての事である。どんなにすばらしい商品でも価格的に売れるあてのない商品は仕入れられない。

呉服屋にとって単純に「価値」と言えば、「いくらで売れる商品価値」というのが直感である。

しかし、目の前にある着物をその尺度に照らしても、私の頭の中で算盤玉は一向に動いてくれない。すなわち私にとってその着物は「仕入れたくない着物」であって、言わば「価値のない着物」なのである。もしも「ただで差し上げますので店頭に並べてください」と言われたとしても私は引き取らないだろう。

しかし、私に今求められているのは、私の主観的な価値ではなく客観的な価値である。おそらく法的な「価値」の鑑定を依頼されている。

では、法的な価値とは何を意味するのだろう。考えられるのは、①製造原価(染屋の出し値)、②問屋の卸値、③小売屋の売値(その着物の持ち主が買った値段)などが考えられるが、それらはどんな意味を持つのだろうか。その価格を調べたとしてもそれを皆が価値として認めるのだろうか。ましてその着物は仕立て上がっている。引き取っても仕立て替えなければならない人にとってはまた価値は変わってくるだろう。

金の価値は相場により左右される。しかし、相場の価格であればいつでも売買が成立するがゆえに金の価値は常に明確である。しかし、着物の場合は主観に左右される要素が大きい。

法的な価値と言えば「今処分すれば確実にいくらになるのか」と言う事に尽きるように思える。では、「その着物がいくらで転売できるのか」、それは私には応えられない。「100円です」と私が鑑定したとしても、私に100円で引き取りを要求されても私は引き取らない。

かと言って、「0円です」と答えたとしても、100円で引き取る人が出てこないとも限らない。無理に鑑定しても、私は私の鑑定に責任は持てないのである。

結局、着物に関するその辺の事情をよく説明したうえで価値をお応えすることなく引き取ってもらった。

後日談ではあるが、結局その着物は古物を扱う人に鑑定してもらい「価値は0」と言う事で決着したらしい。

つづく

Ⅶ-ⅺ 再度、着物の価値について

先日、改めて「着物の価値とは何なのか」と考えさせられる事件?があった。

知り合いの弁護士の奥さんから電話を頂戴した。内容は「訳があって二十枚ほど着物があるので見てもらいたい」との事だった。

こういった類の電話はお客様から良く頂戴する。母親や叔母さん、または知人に着物をたくさんもらいその利用法に関する相談である。寸法はどうなのか。直そうと思えば自分の寸法に直せるのか。また、仕立て替えする価値のある物なのかどうか。解いて羽織やその他の用途に仕立て替えられるのかどうか等など。

私の店ではそう言った相談には喜んでお応えすることにしている。着物の本当の良さを知っていただくには、そう言った着物本来の使い方を知っていただきたいからである。

先日も他のお客様が数枚の着物を持ち込んできた。その中に素晴らしい辻が花の紬の小紋があった。
「これは素晴らしいですよ。是非仕立て返してとって置かれたほうが良いです。」
そうアドバイスすると、
「えっ、そうなんですか。名古屋帯にでもしてもらおうと思ってきたのですが。」
とおっしゃっていたが、結局着物に仕立てて先日その着物を着て来店された。
「みんなに褒められました。」
そういう言葉を聞くと、私は呉服屋冥利に尽きるのである。

さて、その弁護士の奥様もその類の相談だと思った。そして、いつでもお出で下さいとお応えすると、今すぐに持ってくるという返事だった。

果たして三十分もしないうちに事務所の女性と二人で二十枚程の着物を持って来店された。目の前に山積みにされた着物は皆同じ呉服屋の畳紙に入っている。ただし二~三枚はクリーニング店の畳紙であった。
「これだけの着物一枚一枚寸法を測りながら見るには時間が掛かるな。」
と思っていると、
「この着物の価値を鑑定してもらいたいのです。」
と言うことだった。

その言葉の真意は別として、私は古い着物や仕立て上がった着物を見るのが好きである。昔の着物の中には、今ではできないような染織にお目に掛かることもある。最近の着物であっても私の店では仕入れていないような着物もある。そういう意味で、山と積まれた着物の畳紙を開いてみた。

最初の畳紙を開くと、そこには驚くような着物があった。「驚く」と言うのは、私の店では到底扱わないきものだった。一緒に見ていた母と従業員は「うわー」と言う声を揚げていた。

他の二枚の畳紙も開けてみたが同じだった。「このような着物が流通しているのか」と思い、他の畳紙を開けようとしたが、母が「もう見なくてもいいから」と見るのをやめてしまった。

その着物が私の店では扱わない商品であっても、それを売ったお店ではその店のお勧めの着物として扱っているのであって私が云々する事ではない。購入した人も、その着物が好きで買ったのであれば何も問題はないはずである。しかし、更に驚くことがあった。

つづく

Ⅶ-ⅹ 絵絞り庵再訪記(その3)

絵絞庵の新しい工房は、古い長屋の一角にあった。古いと言っても京都らしい町屋である。ここから奥へ行けば三千院のある大原である。この辺りの歴史は良く知らないが、他にも古い町屋が点在しているのが分かる。

京都の町屋はどこでもそうだけれども、古い建物を大切に、そして巧く使っている。玄関は畳敷きで小間が続いている。その玄関を上がると奥の座敷に廣利先生が昔と変わらぬ優しい表情で座っていた。奥様がお茶を出してくれて話をした。

健先生は今まさに若い染色家として歩き始めている。しかし、先生が取り組まなければならない課題は作品の販売の問題である。

前項でも書いたように、呉服業界の流通は以前とはまるで違ってきている。昔は、染織家は物創りに専念していた。もちろん創る作品は問屋や消費者に受け入れられる作品でなければならないが、染織家の作品は問屋が買い取っていた。見本を元に問屋からの注文に応じて作品を創ったり、渾身の作品を問屋が争って買い取ることもあったかもしれない。

また、問屋が特定の染織家と契約し、その染織家が創る全ての作品を買い取る場合もあった。「〇〇作家の作品は〇〇問屋が留めている(全品買い取っている)。」時にはその作家の作品はその問屋からしか調達できない仕組みだった。問屋は染織家の作品を買い取ると同時に、作家を育てる役割も果たしていた。当時、染織家はより良い作品を創るのに没頭できただろうと思う。

しかし、今日問屋は染織家から作品を買い取るのは稀となり、染織家は作品創りだけではなく販売にも力を注がなければならなくなったのは前項でも書いた通りである。

健先生は父親の廣利先生とは違った時代で物創りをしなければならない。そこに健先生の悩みがあるように思えた。

染織メーカーの中には、問屋と同じように営業せざるを得ないところも出てきている。小売屋の展示会に商品を貸し出し、売り上げを作る。しかし、絵絞庵で一つ一つ手を掛けて創った作品はそう沢山できるものではない。大切に育てた我が子のように染め上げた作品を、あちらの展示会こちらの展示会とたらい回しにされればたちまち作品は傷んでしまう。

染織作品に限らず芸術品一般に言えることだけれども、その作品の良さを理解してくれる人に買ってもらうのが大切である。ある人にとってはいくら出しても欲しい作品が、別の人にとってはそれほど興味を示さないこともある。どのくらいの価値を生み出せるかはその染織家の腕だけれども、それに相応しい対価を支払ってくれる人と出会う必要がある。

しかしながら現在の呉服業界の流通形態を見るに、その出会いを見つけるのはとても難しいように思う。ただ売れればよいと言う問屋、「これは〇〇作家の作品です。」と付加価値を付けて高く売ろうとする小売屋。本当の価値を理解してもらえる土壌はいかにも少ない。

健先生は、そのネットワークを創ろうと腐心しておられるようだった。絵絞庵では工房で染色教室も行っている。多くの人に絵絞り(辻が花染め)を体験してもらい、作品を理解してもらおうという試みだと思う。

そして、私のような小売屋とも接触している。「売れればよい」だけでなく、作品の価値を分かってもらえる小売屋との商売を考えている。

小売屋と染織メーカーとの取引は難しい面もある。従来、問屋が買い取った作品はその問屋のお得意さんである小売屋数十軒、あるいは数百軒に紹介されて販売される。小売屋が仕入れる数は問屋に比べれば極少ない。小売屋は問屋が仕入れた沢山の商品の中から選ぶので、特定の染織家の作品を買い取る確率は極少ない。染織メーカーが小売屋と取引するには沢山の小売屋とネットワークを創らねばならない。とても難しいかもしれない。

しかし、私の店でも既に染織メーカーとの取引は始めている。理由は、問屋に商品がないので(問屋がメーカーから商品を買い取らない為)良い商品を問屋で探すのは困難になってきている。商品を注文してもレスポンスが悪く時間が掛かってしまう。気に入った染物、織物と同じメーカーの商品を見たいと思っても見られない等々。

小売屋としては一軒一軒染屋織屋を巡って商品を探すのはとても労力がかかるけれども、本当に良い物、価値ある物を探そうとすれば労を惜しむわけにはいかない。健さんの苦労も私のそれと裏返しの苦労かもしれない。

絵絞庵では作品を広げて見せてくれた。相変わらず福村先生らしいすばらしい作品だった。下がその作品の一部です。

 

 

 

他にもすばらしい作品がありました。もしも作品に興味がおありの方、または呉服屋さんがおられたら私(結城屋)または絵絞庵に直接ご連絡を頂ければ幸いです。

今回の訪問で物創りの現場、染織家の方々のご苦労が肌で感じられました。是非応援していただきたいと思います。

絵絞庵には、廣利先生、健先生ともう一人内弟子(そう呼んでよいのか分かりませんが)の若い女性の方が働いておられました。美大やデザイン学校でも出て先生を頼ってこられたのかと思いましたが、そうではなく本当に先生の技に魅了されて働いているのだそうです。内弟子の仕事は楽ではない。まして染織をとりまく環境が良いとは言えない中で、技を覚えることも、また技を伝える健先生の苦労も並大抵ではない。
「きちんと給料を払えるように頑張ります。」
と言う健先生の言葉が印象的だった。

本当の染色作品を懸命に創ろうとする先生方とそれを学ぼうとしている若い人たちがいることを肌で感じ、呉服屋として励まされたような、また背中を押された様な気がした

絵絞り庵URL http://www.tsujigahana.com/

Ⅶ-ⅹ 絵絞り庵再訪記(その2)

京都では5~6件の問屋を周る予定だった。あらかじめ訪問する問屋の順序を決めている。その一番最後に「絵絞り庵」があった。

「絵絞り庵」には十五年くらい前に伺ったことがあった(続々きもの春秋12.工房訪問記「福村廣利、絵絞り庵」参照)。「絵絞り庵」は、辻が花作家 福村廣利先生の工房である。福村先生はすばらしい辻が花の作品をずっと創り続けている(辻が花については「きもの博物館26.辻が花染」参照)。前回訪問した時は、息子の健さんは修行を始めたころだった。しかし、今は父親の廣利先生と工房で作品を創っている。

その健先生より数日前に突然メールを頂戴した。メールを頂戴するのは十数年ぶりだった。そのメールには、京都に来た時には寄ってもらいたい、それはもちろん商売の話だった。

福村先生の「絵絞り庵」は京都の北東、大原の近くにある。京都の問屋は主に室町通り付近に多い。大原は、室町からは随分遠い。時間的に果たして伺えるのかどうか分からない。健先生のメールには、「時間があれば伺います。伺う場合はお電話致します」とだけ返信しておいた。
さて、6時に京都の街に降り立った私は、休息と朝食の(安い)店を探した。しかし、朝食を供する店はほとんど開店が7時だった。地下鉄バスの1日券を買って地下鉄で五条まで行った。五条は私が世話になった問屋のある場所である。その問屋は既になく、「京都の街も随分と変わったな。」と思いながら朝食の店を探しながら四条まで歩いた。しかし、やはりどこも開店は7時からで、まだ準備中の店ばかりだった。
四条から少し戻ると、先程まだ準備中だった店に四~五人の行列ができていた。朝食を採る為か、あるいは出勤前のコーヒー、と言うところだろう。ビジネスマン然とした人が並んでいる。
私がちょうどその店に着くと扉が開いた。モーニングを注文して約一時間、新聞を読んで今日訪問する問屋の順序と場所を確認した。

問屋が開くのは9時。それに間に合うように店を出て問屋に向かった。少々早く着いたけれども9時前には入れてくれた。もちろん一番乗り。朝が早いので他の客もなく商談も早く進み、2件目3件目と問屋を周った。

途中、問屋さんが車で送ってくれたりしたので効率よく回ることができ、予定の問屋を周ったところでまだ3時を過ぎたところだった。帰りのバス時間まではまだまだある。「絵絞り庵」を訪問することにして電話をした。

前回訪問した時には地下鉄で終点の国際会議場まで行き迎えに来てもらっていた。今回は大原行きのバスで行った。「絵絞り庵」は前回訪問した場所から引越して、もよりの三宅八幡停留所のすぐ近くだという。1日乗車券を持っていたこともあり四条のバス停から京都バス大原行きに乗った。

京都のバスは意外と便利である。案内の地図を見れば路線がすぐにわかる。四条から鴨川を越えて川端通りを北へ、大原に向かった。途中、居眠りもしたが30分くらいで大原の少し手前、三宅八幡に着いた。

電話をして場所を聞くと、健先生が迎えに来てくれた。

続く

Ⅶ-ⅹ 絵絞り庵再訪記

 先日、仕入れの為に京都へ行ってきた。以前は京都へは年に2~3回は行っていたが、最近はめっきり回数が減ってしまった。売り上げが減少し仕入れる商品が少なくなったこともあるが、取引していた問屋が廃業、閉店あるいは倒産して京都との取引が少なくなり、多くは東京から仕入れるようになり京都には余り用事がなくなったこともあるが、行くのは久しぶりである。

 山形から京都に行くには、飛行機か新幹線である。どちらで行っても時刻の関係で京都に着くのは昼頃である。一泊しても次の日午後3時には京都を発たなければならない。一泊二日と言えども何軒も問屋を周るには意外と時間がない。

 加えて最近はインバウンドのお陰で京都のホテルはなかなか取れないという。金に糸目を付けなければとれるのかもしれないが、短期間で安宿を確保するのは至難の業である。問屋に相談してみたが最近は京都ではホテルが取れずに、しかたなく大津のホテルに泊まる人もいるという。

 そんな訳で今回は夜行バスの往復で京都に行くことになった。バスで行くのは初めてである。夜7時40分に山形を発つと翌日朝6時18分に京都駅八条口に着く。そしてその夜9時30分に京都駅八条口を発ち翌日朝8時に山形に着く。二晩バスの中で寝ることになる。

 六十歳を過ぎて初めての京都日帰り旅行であるが、36時間寝ないで過ごすと思えば何という事もない。帰りのバスに乗ってしまえばあとは何とかなるだろうと言う目算もあった。

 考えて見ればバスで行けば、朝6時から夜の9時まで丸15時間京都で動けることになる。運賃は半額以下である。一泊で出張するよりも効率がずっと良い。そういう訳で午後7時40分に山形のバスターミナルでバスに乗り込んだ。

 バスは出発して山形県内で2か所停車する。そして県境を越えて新潟に入る。県境の山を下ると関川という道の駅がありここでトイレ休憩。最後の休憩である。時刻は午後10時。

 関川を出ると日本海東北自動車道に入る。バスの座席は十分なリクライニング。枕や毛布も用意されているが足元がちょっと狭い。椅子を倒してうつらうつらして新潟市を過ぎ北陸道に入ったと思われる頃寝入った。

 気が付くと滋賀県内を走っている。賤ケ岳サービスエリヤで運転手交代の為停車。午前4時過ぎである。4~5時間は眠れたようだ。

 バスは京都東インターチェンジで降りる。1号線を走って山科を通り五条に出る。この辺りは30数年前に走った道なのでどこを走っているかが分かる。堀川通を左に曲がり京都駅裏、八条口に着く。時刻は予定より早く午前6時を回った頃。夜が明けきらない京都の町は小雨が降っていた。バスを降りたが、飛行機や新幹線での入洛とはまた違ったものを感じていた。

つづく

Ⅶ-ⅸ 染帯の怪(塩瀬帯の消滅)その3

 着物は高価でデリケートである。また創った人の心も籠っている。そう言った着物は細心の注意を払って扱わなければならない。塩瀬だけでなく呉服商品の扱いについては私も先輩に十分に注意された。
「商品を触る時には手を洗うように。」
「飾ってある袋帯を撞木から外す時には裏が擦れないように一度持ち上げてから外すように。」
「唐織の帯を扱う時には糸を引っかけないように腕時計などに注意するように。」
等々、いずれも呉服商品を扱う基本的な心掛けである。

 呉服に限らずどの業界でも商品を扱う時には細心の注意払っている。魚屋さんであれば魚の鮮度が落ちないように。陶器屋さんは商品の陶器が欠けないように。商品は、それを扱う商売人にとっては取扱いに気を付けて扱わなければならないものである。
 しかし、呉服業界、呉服の展示会での商品の扱われ方にはひどいものがある。その結果塩瀬の染帯は哀れな姿で染屋に戻ることになる。

 原因は、第一に販売員の着物に対する意識の低さがある。お客様を展示会に送り込むだけの販売員。何でもかんでも売れればよいという販売員、マネキンさん。そう言った意識が商品の扱いに反映されてくる。

 また、展示会で並べられる商品はほとんどが浮き貸し、すなわち問屋やメーカーから借りてきた商品であるということがある。自社の商品(買い取った商品)であれば、商品を傷めることが何を意味するのかが分かるはずである。そこには、他人の物だからぞんざいに扱うと言った非常に稚拙な意識が垣間見える。

 一人の販売員にしてみれば、言われたようにお客様を勧誘し展示会に連れてくる。皆がするように商品を扱いお客様に勧める。と言ったように、何の罪悪感もないのかもしれない。このあたりにも呉服業界の問題が浮かび上がってくる。

 呉服業界の流通形態がおかしくなっている。小売屋は商品を買わず問屋からの浮き貸しで商売をしようとする。商品を買ってもらえない問屋は疲弊し、問屋自体が商品を買えずにメーカー(染屋織屋)から商品を借りて商売をする。シワ寄せを食ったメーカーは、本来の物創りに専念できずに創った商品を貸して商売をしている。呉服を扱う者は、そのプロとしての意識が欠如し、着物は商売で利益を得る媒体としてしか認識していない。

 染屋が塩瀬の染帯を創らない事情の裏には呉服業界の深刻な問題がある。

Ⅶ-ⅸ 染帯の怪(塩瀬帯の消滅)その2

「以前は塩瀬も染めていたのですが、最近はやめました。展示会に出すとどうしようもないんです。」
 主人の話によると、展示会に塩瀬の帯を貸すと帯がボロボロになって帰ってくるという。

 塩瀬は羽二重の一種で太い緯糸を使い緻密で地厚な平織の生地です。縮緬と違って糸に撚りを掛けていませんので、堅くてしっかりとした生地です。表面もツルッとしています。染帯には適しているのですが、反面折れに弱いのと汚れに弱い性質があります。

 縮緬や紬地は柔らかいので折れ(シワ)には鷹揚ですが、堅い塩瀬の生地はシワに対して脆弱で、シワができるとなかなか元に戻りません。表面がツルッとしているだけに汚れが付きやすく、また目立ちやすいので取り扱いには注意が必要です。

 私も京都にいた時分、問屋の先輩に塩瀬の帯、特に白の帯の扱い方はよく注意されました。生地が織れないように、むやみに擦り付けたり汚れた手で触らないようにと。

 私は、染屋の主人が言う「展示会に出すとどうしようもないんです。」の意味は直ぐに呑み込めました。腫物を触るように扱わなければならない塩瀬の帯がぞんざいに扱われたらどうなるかは容易に想像できたからです。

 今の呉服の展示会で着物の事を理解している人がどれだけいるでしょうか。客を展示会に呼んでくるだけの社員。売る為だけの販売員、マネキン。その現場の風景は容易に想像できます。

 お客様の前に次々に帯を広げ、踏みつけたりシワができてもものともせずに売ることに専念する。お客様が希望すれば半分に折って体に巻き付けて鏡の前に立たせる。お客様に気に入っていただけなければそのまま放り出して販売に専念する。

 塩瀬の帯としてはたまったものではない。シワだらけになり汚され染屋に戻ってくる。中には新品としての価値がなくなってしまった物も出てくる。

 このように扱われるのは塩瀬の帯に限らないが、紬であればまた元通り新品の体裁を整えて出荷することができる。染屋として塩瀬の染帯を創りたがらない理由がそこにある。塩瀬の染帯を創らない染屋の主人の悩みは十分に理解できるし、いたしかたないとも言える。しかし、そこには呉服業界の深刻な問題がはらんでいる。

 一つは、商品の流通の問題である。展示会では多くの商品が必要なため、商品は委託(借りて)である。昔は小売業者が問屋から商品を借りていた。しかし、今は問屋の力がなくなり、問屋は商品を持っていない。したがって問屋は染屋、織屋から商品を借りたり、小売屋が染屋、織屋から直接商品を借りるようになった。

 昔は染屋、織屋はそれぞれの仕事に専念し物創りに励んでいた。創った商品はほとんど問屋が現金で買い取っていた。染屋、織屋は物創りに専念し、問屋はそれを買い取って全国の小売屋に売り渡す。メーカー、問屋、小売屋はそれぞれが責任を持ってその成すべき役割を果たしていた。

 しかし、今日小売屋も問屋も商品を買い取らず委託に頼っている。シワ寄せを食ったメーカーは多くの負担を強いられている。それに拍車を掛けているのが展示会である。そして一度展示会に商品を出品すれば、染上がったばかりの商品が見るも無残な姿で帰ってくる。そこに業界の流通形態の問題がある。

 もう一つの問題は展示会で商品を扱う人の問題である。
                                        つづく

Ⅶ-ⅸ 染帯の怪(塩瀬帯の消滅)

 前節でも書いたように、今呉服業界では、良い商品を入手するのが難しくなっている。昔から商品は問屋から仕入れたものだが、問屋には商品がない。今の問屋の多くは、必要な時だけ染屋織屋(メーカー)から借りてきて商品を並べている。問屋を周っても欲しい商品はなかなか無いし、注文してメーカーから取ってもらっても良い商品にはお目に掛からない。そういう訳で、最近は染屋織屋(メーカー)まで足を延ばして仕入れをしている。

 メーカーで創る商品は限られているので、一軒のメーカーで色々な商品を仕入れることはできないので、何軒も染屋織屋を周って仕入れをすることになる。大変手間がかかるけれども、商売には替えられない。産地に出向いて商品を仕入れることが多くなった。

 先日も私がひいきにしている染屋に足を延ばして仕入れに行ってきた。

 その染屋は品質を落とさずに頑なに良い染物を創っている。振袖から染帯まであり、価格も常識的である。振袖も欲しいと思ったけれども生憎振袖は出払って2~3枚しかなかった。代わりに染帯があったので見せてもらった。

「染帯」と言っても、どんな帯なのかは意外と分かりづらいかもしれない。「染帯」とは文字通り「染めた帯」である。「染めた帯」でない帯は「織った帯」である。ここで言う「染め」とは「後染」、すなわち白生地に柄を染めたものである。「織った」とは、糸の段階で色を染めて織ったものを指している。(「きもの講座4.染と織について」参照)

 さて、「染帯」と言っても種類は様々である。帯の形式から言えば、九寸名古屋帯が圧倒的に多い。八寸名古屋帯もいくらかあるし袋帯も稀に創られている。

 その染屋で創られているのも九寸名古屋帯である。しかし、同じ九寸名古屋帯でも素材によってまた色々な種類がある。

 九寸名古屋帯に使われる素材としては、紬、縮緬、塩瀬などがある。それぞれ用途は違っている。紬染帯は紬の白生地に柄を染めたものでカジュアルである。縮緬の染帯はシボがあるために塩瀬の方がフォーマルとされている。

 塩瀬の帯は、デュークエイセスの「女一人」と言う歌の歌詞に
「結城に塩瀬の素描の帯が・・・」
と詠われているように染帯の代表格でもある。「塩瀬」と言うのは「塩瀬羽二重」と言う生地を指す言葉で、塩瀬は染帯や男性の紋付に用いられる生地である。しかし、業界で「塩瀬」と言えば十中八九「塩瀬の染帯」を意味している。それ程塩瀬の染帯は染帯の中でも中核を成している。

 さて、その染屋で染帯を見せてもらった。5~60本位あっただろうか。丸巻きの染帯を畳の上に流して行く。しかし、その9割が紬の染帯だった。

 私は塩瀬の染帯が欲しかった。塩瀬は紬の着物にも合わせられるし、小紋や色無地にも合わせられる。色無地を着る際には、織帯と塩瀬を使いこなせば幅広く着用することができる。以前は京都でも沢山染められていたが最近はあまり見なくなった。安価な塩瀬はとても重宝したが、最近見かけるのは高価な工芸帯が多い。その染屋で染められていた塩瀬の染帯がある事を期待してきたが期待外れに終わった。

 私の店に限って言えば、染帯の需要の中では塩瀬が多い。次に縮緬である。そして紬の染帯は締める着物が限定される為に塩瀬や縮緬に比べてはるかに少ない。紬の染帯は色無地には締めないし、小紋も限定され主に紬に限られてしまう。染屋とて同じはずである。少なくとも塩瀬は紬と同数あるいはそれ以上染めても良さそうである。主人に聞いてみると、塩瀬は染めていないという。

 私は染屋の主人に聞いた。
「何故、塩瀬は染めないのですか。塩瀬の方が売れるでしょう。」
 その問いへの主人の答えは驚くべきものだった。
つづく

Ⅶ-ⅷ 呉服屋がなくなる時(その5)

 訪問着や小紋、袋帯や名古屋帯、襦袢などはメーカーが減っているとはいえ、これからもまだまだ創られるだろう。しかし、着物の裾物とも言える付属品やメリンスなどの普段着に必要な商品が減少し、姿を消すことも考えられる。

 今呉服店で盛んに売られている訪問着や小紋、高級紬、袋帯や名古屋帯を着物の本丸とすると、呉服業界は次第に外堀を埋められつつある。極普段着としての紬やウールは次第に姿を消し、それらを仕立てるのに必要な付属品もいつまで供給が続くか分からない。

 三の丸、二の丸を失えば城としての機能は果たさなくなってしまうのだが、呉服業界は、そんな事にはお構いなしに本丸の高さだけを競おうとしている。やせ細った異常に高い本丸だけが残り、それが瓦解する時が「呉服屋がなくなる時」かもしれない。

 さて、需要の減少によって外堀が埋められる・・則ち店頭に並ぶ商品のアイテムの減少・・は避けられないだろう。細った需要に対しても真摯に向き合い、呉服の火を灯し続ける努力をすれば「呉服屋がなくなる時」はずっと先に延命できる、否再生できるかもしれない。

 問題は、やせ細った異常に高い本丸である。外堀には目もくれず、高額な着物を、いや高額にした着物を消費者に売るだけの呉服業界であれば、バベルの塔が倒壊する如く崩壊するだろう。

 私の店に限って言えば、「結城屋がなくなる時」は何が引き金になるのだろう。

 企業である以上、最も危ないのは放漫経営である。店の実情を考えずにどんぶり勘定で経営して倒産する例は散見されるが、私はそれはないつもりでいる。現状のような呉服業界で放漫経営すればたちまち倒産の憂き目を見ることは間違いない。
放漫経営はないとしても、どんな経営者であっても、どんなにまじめに経営に専心しても内的外的理由によって店を閉めなくてはならなくなることもある。

 内的理由としては経営手腕の不足と言う原因が考えられるが、それは資本主義の世の中に於いては「力不足」として本人の責任でしかない。

 外的理由としては、今まで述べてきたように、
① 需要の減少による呉服店の消滅
② 着物の生産の減少により売るべき商品の減少
③ 着物の付属品や安価な着物のアイテムの消滅によって着物そのものの存立が危うくなる
④ 業界自身による自滅
が考えられる。

 私の店で①は何とか耐えている。きものの需要は確実に減っているが、店をそれに合わせて縮小しながらも、本当に着物を欲しい人の需要に応えれば、まだまだ店は閉めずにいられると確信している。

②には本当に困っている。お客様求めている商品、店に並べたいと思う商品が容易に手に入らない。最近は、問屋では見つからないので染屋、織屋に足を運んで商品を調達している。この時代ならではの企業努力と思う。

③も大変困った問題である。需要の量としては非常に少ないとはいえ、本当に着物が好きな人にとっては必要なアイテムが消えて行く。これも、仕入れ先を変えながら、また代用品を探しては調達している。このような努力をいつまで続けられるか分からないが続く限り少ない需要にも応えて行きたいと思っている。

 ここまでの①から③までは、企業努力により何とか店を続けられそうである。しかし、私の店にとって一番の問題は④である。

 日本の着物をより後世まで伝えたい。そういう意味で①②③の努力を続けている。しかし、業界ではそれとは真逆に動いている。需要の少ない着物は切り捨てる。売り上げを確保するために展示会ではとてつもなく高額で着物が販売される。あの手この手の販売は消費者に不信感を与え、着物に近寄りがたい印象を与えている。

 ネット上で散見される呉服店への苦情はまさにそれらの産物である。
 また、売り上げを確保するために、日本の伝統的な着物はどこへやら、今迄とはまるで違ったしきたりを誘発する着物が売られている。それらは、これからの日本の着物を創造するものではなく、売り上げを確保せんがためのもので、一過性に留まり出ては消え、着物の本質を見えにくくこそすれ、本当に着物の普及にはむしろ障害となっている。

 このような呉服環境の中、消費者の間で着物の本質が見えなくなり私の店に、
「こんな安い着物は化繊ですか。」
「ゆかたに合わせる袋帯はありませんか。」
「裄丈を2尺3寸にしてください。」
そう言うお客様が頻繁にいらっしゃるようになれば、私の店も閉めなくてはならないだろう。

Ⅶ-ⅷ 呉服屋がなくなる時(その4)

 呉服店が商売をするために仕入れる物は着物地や帯に限らない。胴裏や帯芯などの仕立てに必要な付属品。半襟や帯締、帯揚、草履などの小物。それらが揃って初めて着物や帯を仕立てることができ、着物を着る事ができる。

 こう言った小物や付属品はとても種類が多い。半襟を一つ取って見ても、秋冬用の半襟と夏用の絽の半襟がある。素材によっても、正絹、交織、化繊、麻など。そして、色物や柄物、刺繍半襟など。全ての半襟を揃えようとするだけで途轍もないアイテムの半襟を在庫として用意しなければならない。

 また、裏襟は表には出ないので半襟ほど種類は多くはないが、羽二重、夏用の絽、化繊、キュプラ、麻など様々な種類がある。

 これら半襟や裏襟は今でも相当数の需要があるが、最近ほとんど需要のなくなった付属品もある。昔は、日本人のほとんどが四六時中着物を着ていたので、着物の種類は現在に比べてはるかに多かった。綿やウールの着物。半纏、寝巻、掻巻、ねんねこ、産着や子供の着物(普段着の)等々。それらを仕立てるには、着物と同様に表生地と付属品が必要だった。

 普段着として用いられた生地は、木綿やウール。木綿にも材質や産地によって高価なものから極廉価なものまで。ウールと一口に言っても、「しょうざん」等の染を施したものから、ネル、セル、メリンスまで種類があった。

 しかし、それらの着物(訪問着、小紋、紬といった現在呉服屋に並んでいる商品ではない着物)はほとんど需要がなくなってしまった。なくなったと言っても、まったくというわけではなくていくらかの需要はある。ウールの着物を求めてくる人は稀にいるし、何十年も使った掻巻がボロボロになったので相談に来る方もいる。そして、未だに自分で仕立てをする人が、裏襟や袖口に使う黒八、別珍衿を買いに来ることもある。

 そう言った商品は、着物のパーツとして昔はどこの呉服屋でも扱っていただろう。しかし、そう言った商品を扱っている呉服屋はほとんどないらしい。私の店に来て、
「別珍の衿は置いていますか。」
という問いに、
「はい、ございます。」
と言うと、「本当にあるんですか。」といった驚いた様子で買って行く。

 私の店では、ほとんど動かないような商品でもできるだけ置くようにしている。在庫の金額としてはそう大きくはないし、やはり常に着物を着ている人達が利用できない呉服屋にはなりたくないと思う。

 しかし、小売屋はそれで済むのだけれども、それを作る立場(メーカー)になるとそうはいかない。わずかな需要の為に商品を生産するのは大変なことである。

 先に挙げた袖口や半纏、丹前の衿に使われる黒八は、私の店で売れるのはせいぜい年に2~3着分である。一着分は1,000~1,500円。山形県ではおそらく私の店も含めて数件しか扱っていないだろう。そう考えると、全国で年間どれだけ黒八が売れるのだろう。

 メリンスの襦袢は普段着用として着られてきた。普段着に正絹の襦袢ではもったいない。メリンスであれば安価でメンテナンスも楽である。そういう意味で私の店では普段着にはメリンス襦袢を勧めてきた。メリンス襦袢は多彩な色柄で染められ、以前は柄見本帳と言えば生地を分厚く閉じたものだった。しかし、最近は柄数が限られてきた。先日男物のメリンス襦袢を発注しようとしたところ柄は色違いも含めてせいぜい十種位。柄を選ぼうにも選べなくなってきている

 メーカーとしては多くの柄を生産できるほどの需要がないのだろう。需要のないものは、メーカーとして生産を減らし、時には生産を終了せざるを得ないのは、この業界に限ったことではない。

                                   つづく